》に行《い》かうと思つて、まだ行《い》かない」
平岡の言葉は言訳《いひわけ》と云はんより寧ろ挑|戦《せん》の調子を帯びてゐる様に聞《き》こえた。襯衣《シヤツ》も股引《もゝひき》も着《つ》けずにすぐ胡坐《あぐら》をかいた。襟《えり》を正《たゞ》しく合《あは》せないので、胸毛《むなげ》が少し出《で》ゝゐる。
「まだ落《お》ち付《つ》かないだらう」と代助が聞いた。
「落ち付く所《どころ》か、此分《このぶん》ぢや生涯落ち付きさうもない」と、いそがしさうに烟草を吹かし出《だ》した。
代助は平岡が何故《なぜ》こんな態度で自分に応接するか能く心得てゐた。決して自分に中《あた》るのぢやない、つまり世間《せけん》に中《あた》るんである、否|己《おの》れに中《あた》つてゐるんだと思つて、却つて気の毒になつた。けれども代助の様な神経には、此調子が甚だ不愉快に響いた。たゞ腹《はら》が立たない丈である。
「宅《うち》の都合は、どうだい。間取《まどり》の具合は可《よ》ささうぢやないか」
「うん、まあ、悪《わる》くつても仕方《しかた》がない。気に入つた家《うち》へ這入らうと思へば、株《かぶ》でも遣《や》るより外に仕様がなからう。此頃東京に出来る立派な家《うち》はみんな株屋が拵《こしら》へるんだつて云ふぢやないか」
「左様《さう》かも知れない。其代り、あゝ云ふ立派な家《うち》が一軒|立《た》つと、其|陰《かげ》に、どの位沢山な家《うち》が潰《つぶ》れてゐるか知れやしない」
「だから猶《なほ》住《す》み好《い》いだらう」
平岡は斯《か》う云つて大いに笑《わら》つた。其所《そこ》へ三千代《みちよ》が出《で》て来《き》た。先達てはと、軽《かる》く代助に挨拶をして、手に持《も》つた赤いフランネルのくる/\と巻《ま》いたのを、坐《すは》ると共に、前《まへ》へ置《お》いて、代助に見せた。
「何ですか、それは」
「赤※[#小書き平仮名ん、94−8]坊の着物《きもの》なの。拵《こしら》へた儘、つい、まだ、解《ほど》かずにあつたのを、今|行李《こり》の底《そこ》を見《み》たら有《あ》つたから、出《だ》して来《き》たんです」と云ひながら、附紐《つけひも》を解《と》いて筒袖《つゝそで》を左右に開《ひら》いた。
「こら」
「まだ、そんなものを仕舞つといたのか。早く壊《こわ》して雑巾にでもして仕舞へ」
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