自分の方にこそ寧ろ不安の分子があつて然るべき筈だ。代助は独りで考へるたびに、自分は特殊人《オリヂナル》だと思ふ。けれども要吉の特殊人《オリヂナル》たるに至つては、自分より遥かに上手《うはて》であると承認した。それで此間《このあひだ》迄は好奇心に駆《か》られて「煤烟」を読んでゐたが、昨今になつて、あまりに、自分と要吉の間に懸隔がある様に思はれ出したので、眼《め》を通さない事がよくある。
代助は椅子の上《うへ》で、時々《とき/″\》身を動《うご》かした。さうして、自分では飽く迄落ち付いて居ると思つてゐた。やがて、紅茶を呑んで仕舞つて、例《いつも》の通り読書《どくしよ》に取りかゝつた。約二時間ばかりは故障なく進行したが、ある頁《ページ》の中頃まで来《き》て急に休《や》めて頬杖を突《つ》いた。さうして、傍《そば》にあつた新聞を取つて、「煤烟」を読んだ。呼吸の合はない事は同じ事である。それから外《ほか》の雑報を読んだ。大隈伯が高等商業の紛擾に関して、大いに騒動しつゝある生徒側の味方をしてゐる。それが中々強い言葉で出《で》てゐる。代助は斯う云ふ記事を読《よ》むと、是は大隈伯が早稲田へ生徒を呼び寄せる為《ため》の方便だと解釈する。代助は新聞を放り出《だ》した。
六の三
午過《ひるすぎ》になつてから、代助は自分が落ち付いてゐないと云ふ事を、漸く自覚し出《だ》した。腹《はら》のなかに小《ちい》さな皺《しわ》が無数に出来《でき》て、其皺《そのしわ》が絶えず、相互《さうご》の位地と、形状《かたち》とを変《か》へて、一面に揺《うご》いてゐる様な気持がする。代助は時々《とき/″\》斯う云ふ情調の支配を受ける事がある。さうして、此種の経験を、今日迄、単なる生理上の現象としてのみ取り扱つて居つた。代助は昨日《きのふ》兄《あに》と一所に鰻《うなぎ》を食《く》つたのを少し後悔した。散歩がてらに、平岡の所へ行て見《み》やうかと思ひ出《だ》したが、散歩が目的か、平岡が目的か、自分には判然たる区別がなかつた。婆さんに着物を出《だ》さして、着換《きか》へやうとしてゐる所へ、甥《をひ》の誠太郎が来《き》た。帽子を手に持《も》つた儘、恰好の好《い》い円《まる》い頭《あたま》を、代助の頭へ出して、腰《こし》を掛《か》けた。
「もう学校は引けたのかい。早過《はやす》ぎるぢやないか」
「ちつとも
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