気の毒だというよりも、せっかく来たのに泥棒がはいらなくって気の毒だという冗談のように聞こえた。奥さんはそういいながら、先刻《さっき》出した西洋菓子の残りを、紙に包んで私の手に持たせた。私はそれを袂《たもと》へ入れて、人通りの少ない夜寒《よさむ》の小路《こうじ》を曲折して賑《にぎ》やかな町の方へ急いだ。
 私はその晩の事を記憶のうちから抽《ひ》き抜いてここへ詳《くわ》しく書いた。これは書くだけの必要があるから書いたのだが、実をいうと、奥さんに菓子を貰《もら》って帰るときの気分では、それほど当夜の会話を重く見ていなかった。私はその翌日《よくじつ》午飯《ひるめし》を食いに学校から帰ってきて、昨夜《ゆうべ》机の上に載《の》せて置いた菓子の包みを見ると、すぐその中からチョコレートを塗った鳶色《とびいろ》のカステラを出して頬張《ほおば》った。そうしてそれを食う時に、必竟《ひっきょう》この菓子を私にくれた二人の男女《なんにょ》は、幸福な一対《いっつい》として世の中に存在しているのだと自覚しつつ味わった。
 秋が暮れて冬が来るまで格別の事もなかった。私は先生の宅《うち》へ出《で》はいりをするついでに、
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