さんに尾《つ》いて行った。下女《げじょ》だけは仮寝《うたたね》でもしていたとみえて、ついに出て来なかった。
 先生はむしろ機嫌がよかった。しかし奥さんの調子はさらによかった。今しがた奥さんの美しい眼のうちに溜《たま》った涙の光と、それから黒い眉毛《まゆげ》の根に寄せられた八の字を記憶していた私は、その変化を異常なものとして注意深く眺《なが》めた。もしそれが詐《いつわ》りでなかったならば、(実際それは詐りとは思えなかったが)、今までの奥さんの訴えは感傷《センチメント》を玩《もてあそ》ぶためにとくに私を相手に拵《こしら》えた、徒《いたず》らな女性の遊戯と取れない事もなかった。もっともその時の私には奥さんをそれほど批評的に見る気は起らなかった。私は奥さんの態度の急に輝いて来たのを見て、むしろ安心した。これならばそう心配する必要もなかったんだと考え直した。
 先生は笑いながら「どうもご苦労さま、泥棒は来ませんでしたか」と私に聞いた。それから「来ないんで張合《はりあい》が抜けやしませんか」といった。
 帰る時、奥さんは「どうもお気の毒さま」と会釈した。その調子は忙しいところを暇を潰《つぶ》させて
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