いか私にも解《わか》らなかった。告白はぼうとしていた。それでいて明らかに私の神経を震《ふる》わせた。
私は先生のこの人生観の基点に、或《あ》る強烈な恋愛事件を仮定してみた。(無論先生と奥さんとの間に起った)。先生がかつて恋は罪悪だといった事から照らし合せて見ると、多少それが手掛《てがか》りにもなった。しかし先生は現に奥さんを愛していると私に告げた。すると二人の恋からこんな厭世《えんせい》に近い覚悟が出ようはずがなかった。「かつてはその人の前に跪《ひざまず》いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載《の》せさせようとする」といった先生の言葉は、現代一般の誰彼《たれかれ》について用いられるべきで、先生と奥さんの間には当てはまらないもののようでもあった。
雑司ヶ谷《ぞうしがや》にある誰《だれ》だか分らない人の墓、――これも私の記憶に時々動いた。私はそれが先生と深い縁故のある墓だという事を知っていた。先生の生活に近づきつつありながら、近づく事のできない私は、先生の頭の中にある生命《いのち》の断片として、その墓を私の頭の中にも受け入れた。けれども私に取ってその墓は全く死んだものであった。
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