のいる席でなければ私と奥さんとは滅多《めった》に顔を合せなかったから。
 私の疑惑はまだその上にもあった。先生の人間に対するこの覚悟はどこから来るのだろうか。ただ冷たい眼で自分を内省したり現代を観察したりした結果なのだろうか。先生は坐《すわ》って考える質《たち》の人であった。先生の頭さえあれば、こういう態度は坐って世の中を考えていても自然と出て来るものだろうか。私にはそうばかりとは思えなかった。先生の覚悟は生きた覚悟らしかった。火に焼けて冷却し切った石造《せきぞう》家屋の輪廓《りんかく》とは違っていた。私の眼に映ずる先生はたしかに思想家であった。けれどもその思想家の纏《まと》め上げた主義の裏には、強い事実が織り込まれているらしかった。自分と切り離された他人の事実でなくって、自分自身が痛切に味わった事実、血が熱くなったり脈が止まったりするほどの事実が、畳み込まれているらしかった。
 これは私の胸で推測するがものはない。先生自身すでにそうだと告白していた。ただその告白が雲の峯《みね》のようであった。私の頭の上に正体の知れない恐ろしいものを蔽《おお》い被《かぶ》せた。そうしてなぜそれが恐ろし
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