を受け取った。奥さんは綺麗《きれい》な眉《まゆ》を寄せて、私の半分ばかり注《つ》いで上げた盃を、唇の先へ持って行った。奥さんと先生の間に下《しも》のような会話が始まった。
「珍らしい事。私に呑めとおっしゃった事は滅多《めった》にないのにね」
「お前は嫌《きら》いだからさ。しかし稀《たま》には飲むといいよ。好《い》い心持になるよ」
「ちっともならないわ。苦しいぎりで。でもあなたは大変ご愉快《ゆかい》そうね、少しご酒《しゅ》を召し上がると」
「時によると大変愉快になる。しかしいつでもというわけにはいかない」
「今夜はいかがです」
「今夜は好《い》い心持だね」
「これから毎晩少しずつ召し上がると宜《よ》ござんすよ」
「そうはいかない」
「召し上がって下さいよ。その方が淋《さむ》しくなくって好いから」
先生の宅《うち》は夫婦と下女《げじょ》だけであった。行くたびに大抵《たいてい》はひそりとしていた。高い笑い声などの聞こえる試しはまるでなかった。或《あ》る時《とき》は宅の中にいるものは先生と私だけのような気がした。
「子供でもあると好いんですがね」と奥さんは私の方を向いていった。私は「そうです
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