は疑問だが、私の興味は往来で出合う知りもしない女に向かって多く働くだけであった。先生の奥さんにはその前玄関で会った時、美しいという印象を受けた。それから会うたんびに同じ印象を受けない事はなかった。しかしそれ以外に私はこれといってとくに奥さんについて語るべき何物ももたないような気がした。
 これは奥さんに特色がないというよりも、特色を示す機会が来なかったのだと解釈する方が正当かも知れない。しかし私はいつでも先生に付属した一部分のような心持で奥さんに対していた。奥さんも自分の夫の所へ来る書生だからという好意で、私を遇していたらしい。だから中間に立つ先生を取り除《の》ければ、つまり二人はばらばらになっていた。それで始めて知り合いになった時の奥さんについては、ただ美しいという外《ほか》に何の感じも残っていない。
 ある時私は先生の宅《うち》で酒を飲まされた。その時奥さんが出て来て傍《そば》で酌《しゃく》をしてくれた。先生はいつもより愉快そうに見えた。奥さんに「お前も一つお上がり」といって、自分の呑《の》み干した盃《さかずき》を差した。奥さんは「私は……」と辞退しかけた後《あと》、迷惑そうにそれ
前へ 次へ
全371ページ中25ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング