尋ねてみました。上さんは「そうですね」といって、少時《しばらく》首をかしげていましたが、「かし家《や》はちょいと……」と全く思い当らない風《ふう》でした。私は望《のぞみ》のないものと諦《あき》らめて帰り掛けました。すると上さんがまた、「素人下宿《しろうとげしゅく》じゃいけませんか」と聞くのです。私はちょっと気が変りました。静かな素人屋《しろうとや》に一人で下宿しているのは、かえって家《うち》を持つ面倒がなくって結構だろうと考え出したのです。それからその駄菓子屋の店に腰を掛けて、上さんに詳しい事を教えてもらいました。
 それはある軍人の家族、というよりもむしろ遺族、の住んでいる家でした。主人は何でも日清《にっしん》戦争の時か何かに死んだのだと上さんがいいました。一年ばかり前までは、市ヶ谷《いちがや》の士官《しかん》学校の傍《そば》とかに住んでいたのだが、厩《うまや》などがあって、邸《やしき》が広過ぎるので、そこを売り払って、ここへ引っ越して来たけれども、無人《ぶにん》で淋《さむ》しくって困るから相当の人があったら世話をしてくれと頼まれていたのだそうです。私は上さんから、その家には未亡人《
前へ 次へ
全371ページ中207ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング