りました。あなたから見たら、これが義務の遂行《すいこう》を重んずる私の性格のように思われるかも知れません。私もそれは否《いな》みません。私はあなたの知っている通り、ほとんど世間と交渉のない孤独な人間ですから、義務というほどの義務は、自分の左右前後を見廻《みまわ》しても、どの方角にも根を張っておりません。故意か自然か、私はそれをできるだけ切り詰めた生活をしていたのです。けれども私は義務に冷淡だからこうなったのではありません。むしろ鋭敏《えいびん》過ぎて刺戟《しげき》に堪えるだけの精力がないから、ご覧のように消極的な月日を送る事になったのです。だから一旦《いったん》約束した以上、それを果たさないのは、大変|厭《いや》な心持です。私はあなたに対してこの厭な心持を避けるためにでも、擱いた筆をまた取り上げなければならないのです。
 その上私は書きたいのです。義務は別として私の過去を書きたいのです。私の過去は私だけの経験だから、私だけの所有といっても差支《さしつか》えないでしょう。それを人に与えないで死ぬのは、惜しいともいわれるでしょう。私にも多少そんな心持があります。ただし受け入れる事のできない
前へ 次へ
全371ページ中178ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング