あたかも私の位置が父の希望する通り東京にあったように話した。傍《そば》にいる私はむずがゆい心持がしたが、母の言葉を遮《さえぎ》る訳にもゆかないので、黙って聞いていた。病人は嬉《うれ》しそうな顔をした。
「そりゃ結構です」と妹《いもと》の夫もいった。
「何の口だかまだ分らないのか」と兄が聞いた。
 私は今更それを否定する勇気を失った。自分にも何とも訳の分らない曖昧《あいまい》な返事をして、わざと席を立った。

     十四

 父の病気は最後の一撃を待つ間際《まぎわ》まで進んで来て、そこでしばらく躊躇《ちゅうちょ》するようにみえた。家のものは運命の宣告が、今日|下《くだ》るか、今日下るかと思って、毎夜|床《とこ》にはいった。
 父は傍《はた》のものを辛《つら》くするほどの苦痛をどこにも感じていなかった。その点になると看病はむしろ楽であった。要心のために、誰か一人ぐらいずつ代る代る起きてはいたが、あとのものは相当の時間に各自《めいめい》の寝床へ引き取って差支《さしつか》えなかった。何かの拍子で眠れなかった時、病人の唸《うな》るような声を微《かす》かに聞いたと思い誤った私《わたくし》は、一
前へ 次へ
全371ページ中157ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング