、咽喉《のど》から下へはごく僅《わずか》しか通らなかった。好きな新聞も手に取る気力がなくなった。枕《まくら》の傍《そば》にある老眼鏡《ろうがんきょう》は、いつまでも黒い鞘《さや》に納められたままであった。子供の時分から仲の好かった作《さく》さんという今では一|里《り》ばかり隔たった所に住んでいる人が見舞に来た時、父は「ああ作さんか」といって、どんよりした眼を作さんの方に向けた。
「作さんよく来てくれた。作さんは丈夫で羨《うらや》ましいね。己《おれ》はもう駄目《だめ》だ」
「そんな事はないよ。お前なんか子供は二人とも大学を卒業するし、少しぐらい病気になったって、申し分はないんだ。おれをご覧よ。かかあには死なれるしさ、子供はなしさ。ただこうして生きているだけの事だよ。達者だって何の楽しみもないじゃないか」
浣腸《かんちょう》をしたのは作さんが来てから二、三日あとの事であった。父は医者のお蔭《かげ》で大変楽になったといって喜んだ。少し自分の寿命に対する度胸ができたという風《ふう》に機嫌が直った。傍《そば》にいる母は、それに釣り込まれたのか、病人に気力を付けるためか、先生から電報のきた事を、
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