私の行李《こうり》は、いつの間にか解かれてしまった。私は要《い》るに任せて、その中から色々なものを取り出した。私は東京を立つ時、心のうちで極《き》めた、この夏中の日課を顧みた。私のやった事はこの日課の三《さん》が一《いち》にも足らなかった。私は今までもこういう不愉快を何度となく重ねて来た。しかしこの夏ほど思った通り仕事の運ばない例《ためし》も少なかった。これが人の世の常だろうと思いながらも私は厭《いや》な気持に抑《おさ》え付けられた。
 私はこの不快の裏《うち》に坐りながら、一方に父の病気を考えた。父の死んだ後《あと》の事を想像した。そうしてそれと同時に、先生の事を一方に思い浮べた。私はこの不快な心持の両端に地位、教育、性格の全然異なった二人の面影を眺《なが》めた。
 私が父の枕元《まくらもと》を離れて、独り取り乱した書物の中に腕組みをしているところへ母が顔を出した。
「少し午眠《ひるね》でもおしよ。お前もさぞ草臥《くたび》れるだろう」
 母は私の気分を了解していなかった。私も母からそれを予期するほどの子供でもなかった。私は単簡《たんかん》に礼を述べた。母はまだ室《へや》の入口に立って
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