いた。
「お父さんは?」と私が聞いた。
「今よく寝てお出《いで》だよ」と母が答えた。
母は突然はいって来て私の傍《そば》に坐《すわ》った。
「先生からまだ何ともいって来ないかい」と聞いた。
母はその時の私の言葉を信じていた。その時の私は先生からきっと返事があると母に保証した。しかし父や母の希望するような返事が来るとは、その時の私もまるで期待しなかった。私は心得があって母を欺《あざむ》いたと同じ結果に陥った。
「もう一遍《いっぺん》手紙を出してご覧な」と母がいった。
役に立たない手紙を何通書こうと、それが母の慰安になるなら、手数を厭《いと》うような私ではなかった。けれどもこういう用件で先生にせまるのは私の苦痛であった。私は父に叱《しか》られたり、母の機嫌を損じたりするよりも、先生から見下げられるのを遥《はる》かに恐れていた。あの依頼に対して今まで返事の貰《もら》えないのも、あるいはそうした訳からじゃないかしらという邪推もあった。
「手紙を書くのは訳はないですが、こういう事は郵便じゃとても埒《らち》は明きませんよ。どうしても自分で東京へ出て、じかに頼んで廻《まわ》らなくっちゃ」
「だ
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