た。父は首肯《うなず》いた。父ははっきり「有難う」といった。父の精神は存外|朦朧《もうろう》としていなかった。
私はまた病室を退《しりぞ》いて自分の部屋に帰った。そこで時計を見ながら、汽車の発着表を調べた。私は突然立って帯を締め直して、袂《たもと》の中へ先生の手紙を投げ込んだ。それから勝手口から表へ出た。私は夢中で医者の家へ馳《か》け込んだ。私は医者から父がもう二《に》、三日《さんち》保《も》つだろうか、そこのところを判然《はっきり》聞こうとした。注射でも何でもして、保たしてくれと頼もうとした。医者は生憎《あいにく》留守であった。私には凝《じっ》として彼の帰るのを待ち受ける時間がなかった。心の落《お》ち付《つ》きもなかった。私はすぐ俥《くるま》を停車場《ステーション》へ急がせた。
私は停車場の壁へ紙片《かみぎれ》を宛《あ》てがって、その上から鉛筆で母と兄あてで手紙を書いた。手紙はごく簡単なものであったが、断らないで走るよりまだ増しだろうと思って、それを急いで宅《うち》へ届けるように車夫《しゃふ》に頼んだ。そうして思い切った勢《いきお》いで東京行きの汽車に飛び乗ってしまった。私はごうごう鳴る三等列車の中で、また袂《たもと》から先生の手紙を出して、ようやく始めからしまいまで眼を通した。
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下 先生と遺書
一
「……私《わたくし》はこの夏あなたから二、三度手紙を受け取りました。東京で相当の地位を得たいから宜《よろ》しく頼むと書いてあったのは、たしか二度目に手に入《い》ったものと記憶しています。私はそれを読んだ時|何《なん》とかしたいと思ったのです。少なくとも返事を上げなければ済まんとは考えたのです。しかし自白すると、私はあなたの依頼に対して、まるで努力をしなかったのです。ご承知の通り、交際区域の狭いというよりも、世の中にたった一人で暮しているといった方が適切なくらいの私には、そういう努力をあえてする余地が全くないのです。しかしそれは問題ではありません。実をいうと、私はこの自分をどうすれば好《い》いのかと思い煩《わずら》っていたところなのです。このまま人間の中に取り残されたミイラのように存在して行こうか、それとも……その時分の私は「それとも」という言葉を心のうちで繰り返すたびにぞっとしました。馳足《かけあし》で絶壁の端《はじ》まで来て
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