、急に底の見えない谷を覗《のぞ》き込んだ人のように。私は卑怯《ひきょう》でした。そうして多くの卑怯な人と同じ程度において煩悶《はんもん》したのです。遺憾《いかん》ながら、その時の私には、あなたというものがほとんど存在していなかったといっても誇張ではありません。一歩進めていうと、あなたの地位、あなたの糊口《ここう》の資《し》、そんなものは私にとってまるで無意味なのでした。どうでも構わなかったのです。私はそれどころの騒ぎでなかったのです。私は状差《じょうさし》へあなたの手紙を差したなり、依然として腕組をして考え込んでいました。宅《うち》に相応の財産があるものが、何を苦しんで、卒業するかしないのに、地位地位といって藻掻《もが》き廻《まわ》るのか。私はむしろ苦々《にがにが》しい気分で、遠くにいるあなたにこんな一瞥《いちべつ》を与えただけでした。私は返事を上げなければ済まないあなたに対して、言訳《いいわけ》のためにこんな事を打ち明けるのです。あなたを怒らすためにわざと無躾《ぶしつけ》な言葉を弄《ろう》するのではありません。私の本意は後《あと》をご覧になればよく解《わか》る事と信じます。とにかく私は何とか挨拶《あいさつ》すべきところを黙っていたのですから、私はこの怠慢の罪をあなたの前に謝したいと思います。
 その後《ご》私はあなたに電報を打ちました。有体《ありてい》にいえば、あの時私はちょっとあなたに会いたかったのです。それからあなたの希望通り私の過去をあなたのために物語りたかったのです。あなたは返電を掛《か》けて、今東京へは出られないと断って来ましたが、私は失望して永らくあの電報を眺《なが》めていました。あなたも電報だけでは気が済まなかったとみえて、また後から長い手紙を寄こしてくれたので、あなたの出京《しゅっきょう》できない事情がよく解《わか》りました。私はあなたを失礼な男だとも何とも思う訳がありません。あなたの大事なお父さんの病気をそっち退《の》けにして、何であなたが宅《うち》を空《あ》けられるものですか。そのお父さんの生死《しょうし》を忘れているような私の態度こそ不都合です。――私は実際あの電報を打つ時に、あなたのお父さんの事を忘れていたのです。そのくせあなたが東京にいる頃《ころ》には、難症《なんしょう》だからよく注意しなくってはいけないと、あれほど忠告したのは私ですのに
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