らがみ》を父の尻《しり》の下に宛《あ》てがったりした。
父の様子は少しくつろいで来た。三十分ほど枕元《まくらもと》に坐《すわ》っていた医者は、浣腸《かんちょう》の結果を認めた上、また来るといって、帰って行った。帰り際《ぎわ》に、もしもの事があったらいつでも呼んでくれるようにわざわざ断っていた。
私は今にも変《へん》がありそうな病室を退《しりぞ》いてまた先生の手紙を読もうとした。しかし私はすこしも寛《ゆっ》くりした気分になれなかった。机の前に坐るや否《いな》や、また兄から大きな声で呼ばれそうでならなかった。そうして今度呼ばれれば、それが最後だという畏怖《いふ》が私の手を顫《ふる》わした。私は先生の手紙をただ無意味に頁《ページ》だけ剥繰《はぐ》って行った。私の眼は几帳面《きちょうめん》に枠《わく》の中に篏《は》められた字画《じかく》を見た。けれどもそれを読む余裕はなかった。拾い読みにする余裕すら覚束《おぼつか》なかった。私は一番しまいの頁まで順々に開けて見て、またそれを元の通りに畳《たた》んで机の上に置こうとした。その時ふと結末に近い一句が私の眼にはいった。
「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう」
私ははっと思った。今までざわざわと動いていた私の胸が一度に凝結《ぎょうけつ》したように感じた。私はまた逆に頁をはぐり返した。そうして一枚に一句ぐらいずつの割で倒《さかさ》に読んで行った。私は咄嗟《とっさ》の間《あいだ》に、私の知らなければならない事を知ろうとして、ちらちらする文字《もんじ》を、眼で刺し通そうと試みた。その時私の知ろうとするのは、ただ先生の安否だけであった。先生の過去、かつて先生が私に話そうと約束した薄暗いその過去、そんなものは私に取って、全く無用であった。私は倒《さかさ》まに頁をはぐりながら、私に必要な知識を容易に与えてくれないこの長い手紙を自烈《じれっ》たそうに畳んだ。
私はまた父の様子を見に病室の戸口まで行った。病人の枕辺《まくらべ》は存外《ぞんがい》静かであった。頼りなさそうに疲れた顔をしてそこに坐っている母を手招《てまね》ぎして、「どうですか様子は」と聞いた。母は「今少し持ち合ってるようだよ」と答えた。私は父の眼の前へ顔を出して、「どうです、浣腸して少しは心持が好くなりましたか」と尋ね
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