聞いても解《わか》らないというのであった。私から見ればなにも無理に先生を兄に理解してもらう必要はなかった。けれども腹は立った。また例の兄らしい所が出て来たと思った。
先生先生と私が尊敬する以上、その人は必ず著名の士でなくてはならないように兄は考えていた。少なくとも大学の教授ぐらいだろうと推察していた。名もない人、何もしていない人、それがどこに価値をもっているだろう。兄の腹はこの点において、父と全く同じものであった。けれども父が何もできないから遊んでいるのだと速断するのに引きかえて、兄は何かやれる能力があるのに、ぶらぶらしているのは詰《つま》らん人間に限るといった風《ふう》の口吻《こうふん》を洩《も》らした。
「イゴイストはいけないね。何もしないで生きていようというのは横着な了簡《りょうけん》だからね。人は自分のもっている才能をできるだけ働かせなくっちゃ嘘《うそ》だ」
私は兄に向かって、自分の使っているイゴイストという言葉の意味がよく解《わか》るかと聞き返してやりたかった。
「それでもその人のお蔭《かげ》で地位ができればまあ結構だ。お父《とう》さんも喜んでるようじゃないか」
兄は後からこんな事をいった。先生から明瞭《めいりょう》な手紙の来ない以上、私はそう信ずる事もできず、またそう口に出す勇気もなかった。それを母の早呑《はやの》み込《こ》みでみんなにそう吹聴《ふいちょう》してしまった今となってみると、私は急にそれを打ち消す訳に行かなくなった。私は母に催促されるまでもなく、先生の手紙を待ち受けた。そうしてその手紙に、どうかみんなの考えているような衣食の口の事が書いてあればいいがと念じた。私は死に瀕《ひん》している父の手前、その父に幾分でも安心させてやりたいと祈りつつある母の手前、働かなければ人間でないようにいう兄の手前、その他《た》妹《いもと》の夫だの伯父《おじ》だの叔母《おば》だのの手前、私のちっとも頓着《とんじゃく》していない事に、神経を悩まさなければならなかった。
父が変な黄色いものも嘔《は》いた時、私はかつて先生と奥さんから聞かされた危険を思い出した。「ああして長く寝ているんだから胃も悪くなるはずだね」といった母の顔を見て、何も知らないその人の前に涙ぐんだ。
兄と私が茶の間で落ち合った時、兄は「聞いたか」といった。それは医者が帰り際に兄に向っていった事
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