『煤煙』の序
夏目漱石

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)「煤煙《ばいえん》」が朝日新聞に出て

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)安全な部分|丈《だけ》を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ケレン[#「ケレン」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ひし/\と
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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「煤煙《ばいえん》」が朝日新聞に出て有名になつてから後《のち》間もなくの話であるが、著者は夫《それ》を単行本として再び世間に公けにする計画をした。書肆《しよし》も無論賛成で既に印刷に回して活字に組み込まうと迄《まで》した位である。所が其頃《そのころ》内閣が変つて、著書の検閲が急に八釜敷《やかまし》くなつたので、書肆は万一を慮《おもんぱか》つて、直接に警保局長の意見を確めに行つた。すると警保局長は全然出版に反対の意を仄《ほの》めかした。もし押切つて発売に至る迄の手続をしやうものなら、必ず発売禁止になるものと解釈して、書肆は引下つた。著者は已《やむ》を得ず煤煙の切抜帳を抱《いだ》いて、大《おほい》に詰《つ》まらながつてゐた。
 所へある気の利《き》いた男が出て来て、煤煙の全部を出版しやうとすればこそ災を招く恐れがあるので、そのうちの安全な部分|丈《だけ》を切り離して小冊子に纏《まとめ》たらどんなものだらうといふ新案を提出した。著者は多少思考を費した上、此《この》説に同意して、直《たゞち》に煤煙の前半、即ち要吉が郷里《きやうり》に帰つて東京に出て来る迄の間を取敢《とりあへ》ず第一巻として活版にする事に決心した。
 著者の選択した部分は、煤煙の骨子でない所から云へば、著者に取つて遺憾かも知れないが、安全と云ふ点から見れば是程《これほど》安全な章はない。誰が読んだつて差支《さしつかへ》ないんだから大丈夫である。其上《そのうへ》余の視《み》る所では、肝心の後編より却《かへつ》て出来が好《い》い様に思はれる。余は煤烟全部を読み直す暇がないので、判然《はつきり》した判断を下すに躊躇するが、当時の新聞は連続して欠かさず眼を通したものだから、未《いま》だに残つてゐる、其時《そのとき》の印象は、恐らく余に取つて慥《たし》かなものだらうと考へる。其《その》印象を平たく他
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