『土』に就て
――長塚節著『土』序――
夏目漱石

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)有《も》たなかった

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)其実|摯実《しじつ》な
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「土」が「東京朝日」に連載されたのは一昨年の事である。そうして其責任者は余であった。所が不幸にも余は「土」の完結を見ないうちに病気に罹《かか》って、新聞を手にする自由を失ったぎり、又「土」の作者を思い出す機会を有《も》たなかった。
 当初五六十回の予定であった「土」は、同時に意外の長篇として発達していた。途中で話の緒口《いとぐち》を忘れた余は、再びそれを取り上げて、矢鱈《やたら》な区切から改めて読み出す勇気を鼓舞しにくかったので、つい夫限《それぎり》に打《う》ち遣《や》ったようなものの、腹のなかでは私《ひそ》かに作者の根気と精力に驚ろいていた。「土」は何でも百五六十回に至って漸《ようや》く結末に達したのである。
 冷淡な世間と多忙な余は其後久しく「土」の事を忘れていた。所がある時此間|亡《な》くなった池辺君に会って偶然話頭が小説に及んだ折、池辺君は何故《なぜ》「土」は出版にならないのだろうと云って、大分長塚君の作を褒《ほ》めていた。池辺君は其当時「朝日」の主筆だったので「土」は始から仕舞迄《しまいまで》眼を通したのである。其上池辺君は自分で文学を知らないと云いながら、其実|摯実《しじつ》な批評眼をもって「土」を根気よく読み通したのである。余は出版界の不景気のために「土」の単行本が出る時機がまだ来ないのだろうと答えて置いた。其時心のうちでは、随分「土」に比べると詰らないものも公けにされる今日だから、出来るなら何時《いつ》か書物に纏《まと》めて置いたら作者の為に好かろうと思ったが、不親切な余は其日が過ぎると、又「土」の事を丸《まる》で忘れて仕舞った。
 すると此春になって長塚君が突然尋ねて来て、漸《ようや》く本屋が「土」を引受ける事になったから、序を書いて呉《く》れまいかという依頼である。余は其時自分の小説を毎日一回ずつ書いていたので、「土」を読み返す暇がなかった。已《やむ》を得ず自分の仕事が済む迄待ってくれと答えた。すると長塚君は池辺君の序も欲しいから序《つい》でに紹介して貰いたいと云うので、余はすぐ承知した。余の名刺を持って「土」の作者が池辺君の玄関に立ったのは、池辺君の母堂が死んで丁度《ちょうど》三十五日に相当する日とかで、長塚君はただ立ちながら用事|丈《だけ》を頼んで帰ったそうであるが、それから三日して肝心《かんじん》の池辺君も突然|亡《な》くなって仕舞《しま》ったから、同君の序はとうとう手に入らなかったのである。
 余は「彼岸過迄」を片付けるや否や前約を踏んで「土」の校正刷を読み出した。思ったよりも長篇なので、前後半日と中一日を丸潰《まるつぶ》しにして漸《ようや》く業を卒《お》えて考えて見ると、中々骨の折れた作物である。余は元来が安価な人間であるから、大抵の人のものを見ると、すぐ感心したがる癖があるが、此「土」に於《おい》ても全くそうであった。先《ま》ず何よりも先に、是《これ》は到底《とうてい》余に書けるものでないと思った。次に今の文壇で長塚君を除いたら誰が書けるだろうと物色して見た。すると矢張《やはり》誰にも書けそうにないという結論に達した。
 尤《もっと》も誰にも書けないと云うのは、文を遣《や》る技倆《ぎりょう》の点や、人間を活躍させる天賦《てんぷ》の力を指すのではない。もし夫《そ》れ丈《だけ》の意味で誰も長塚君に及ばないというなら、一方では他の作家を侮辱した言葉にもなり、又一方では長塚君を担《かつ》ぎ過ぎる策略とも取れて、何方《どちら》にしても作者の迷惑になる計《ばかり》である。余の誰も及ばないというのは、作物中に書いてある事件なり天然なりが、まだ長塚君以外の人の研究に上っていないという意味なのである。
「土」の中に出て来る人物は、最も貧しい百姓である。教育もなければ品格もなければ、ただ土の上に生み付けられて、土と共に生長した蛆《うじ》同様に憐《あわ》れな百姓の生活である。先祖以来茨城の結城郡《ゆうきぐん》に居を移した地方の豪族として、多数の小作人を使用する長塚君は、彼等の獣類に近き、恐るべく困憊《こんぱい》を極《きわ》めた生活状態を、一から十迄誠実に此「土」の中に収め尽したのである。彼等の下卑で、浅薄で、迷信が強くて、無邪気で、狡猾《こうかつ》で、無欲で、強欲で、殆《ほと》んど余等(今の文壇の作家を悉《ことごと》く含む)の想像にさえ上りがたい所を、ありありと眼に映るように描写したのが「土」である。そうして「土」は長塚君以外に何人も手を着けられ得ない、苦しい百姓生活の、最も獣類に接近した部分
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