を、精細に直叙したものであるから、誰も及ばないと云うのである。
 人事を離れた天然に就《つ》いても、前同様の批評を如何《いか》な読者も容易に肯《うけが》わなければ済《す》まぬ程、作者は鬼怒川《きぬがわ》沿岸の景色や、空や、春や、秋や、雪や風を綿密に研究している。畠《はたけ》のもの、畔《あぜ》に立つ榛《はん》の木、蛙《かえる》の声、鳥の音、苟《いやし》くも彼の郷土に存在する自然なら、一点一画の微に至る迄|悉《ことごと》く其地方の特色を具《そな》えて叙述の筆に上っている。だから何処《どこ》に何《ど》う出て来ても必ず独特《ユニーク》である。其|独特《ユニーク》な点を、普通の作家の手に成った自然の描写の平凡なのに比べて、余は誰も及ばないというのである。余は彼の独特《ユニーク》なのに敬服しながら、そのあまりに精細過ぎて、話の筋を往々にして殺して仕舞《しま》う失敗を歎じた位、彼は精緻《せいち》な自然の観察者である。
 作としての「土」は、寧《むし》ろ苦しい読みものである。決して面白いから読めとは云い悪《にく》い。第一に作中の人物の使う言葉が余等には余り縁の遠い方言から成り立っている。第二に結構が大きい割に、年代が前後数年にわたる割に、周囲に平たく発達したがる話が、筋をくっきりと描いて深くなりつつ前へ進んで行かない。だから全体として読者に加速度《アクセレレーション》の興味を与えない。だから事件が錯綜纏綿《さくそうてんめん》して縺《もつ》れながら読者をぐいぐい引込んで行くよりも、其地方の年中行事を怠《おこた》りなく丹念に平叙して行くうちに、作者の拵《こし》らえた人物が断続的に活躍すると云った方が適当になって来る。其所《そこ》に聊《いささ》か人を魅する牽引力《けんいんりょく》を失う恐が潜《ひそ》んでいるという意味でも読みづらい。然し是等《これら》は単に皮相の意味に於て読みづらいので、余の所謂《いわゆる》読みづらいという本意は、篇中の人物の心なり行なりが、ただ圧迫と不安と苦痛を読者に与える丈《だけ》で、毫《ごう》も神の作ってくれた幸福な人間であるという刺戟《しげき》と安慰を与え得ないからである。悲劇は恐しいに違ない。けれども普通の悲劇のうちには悲しい以外に何かの償《つぐな》いがあるので、読者は涙の犠牲を喜こぶのである。が、「土」に至っては涙さえ出されない苦しさである。雨の降らない代りに生涯《しょうがい》照りっこない天気と同じ苦痛である。ただ土の下へ心が沈む丈《だけ》で、人情から云っても道義心から云っても、殆《ほと》んど此圧迫の賠償《ばいしょう》として何物も与えられていない。ただ土を掘り下げて暗い中へ落ちて行く丈である。
「土」を読むものは、屹度《きっと》自分も泥の中を引《ひ》き摺《ず》られるような気がするだろう。余もそう云う感じがした。或者は何故《なぜ》長塚君はこんな読みづらいものを書いたのだと疑がうかも知れない。そんな人に対して余はただ一言、斯様《かよう》な生活をして居る人間が、我々と同時代に、しかも帝都を去る程遠《ほどとお》からぬ田舎《いなか》に住んで居るという悲惨な事実を、ひしと一度は胸の底に抱《だ》き締《し》めて見たら、公等の是から先の人生観の上に、又公等の日常の行動の上に、何かの参考として利益を与えはしまいかと聞きたい。余はとくに歓楽に憧憬《しょうけい》する若い男や若い女が、読み苦しいのを我慢して、此「土」を読む勇気を鼓舞する事を希望するのである。余の娘が年頃になって、音楽会がどうだの、帝国座がどうだのと云い募《つの》る時分になったら、余は是非此「土」を読ましたいと思って居る。娘は屹度《きっと》厭《いや》だというに違ない。より多くの興味を感ずる恋愛小説と取り換えて呉《く》れというに違ない。けれども余は其時娘に向って、面白いから読めというのではない。苦しいから読めというのだと告げたいと思って居る。参考の為だから、世間を知る為だから、知って己れの人格の上に暗い恐ろしい影を反射させる為だから我慢して読めと忠告したいと思って居る。何も考えずに暖かく成長した若い女(男でも同じである)の起す菩提心《ぼだいしん》や宗教心は、皆此暗い影の奥から射して来るのだと余は固く信じて居るからである。
 長塚君の書き方は何処迄《どこまで》も沈着である。其人物は皆|有《あり》の儘《まま》である。話の筋は全く自然である。余が「土」を「朝日」に載《の》せ始めた時、北の方のSという人がわざわざ書を余のもとに寄せて、長塚君が旅行して彼と面会した折の議論を報じた事がある。長塚君は余の「朝日」に書いた「満韓ところどころ」というものをSの所で一回読んで、漱石という男は人を馬鹿にして居るといって大いに憤慨したそうである。漱石に限らず一体「朝日新聞」の記者の書き振りは皆人を馬鹿にして
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