のだから、余一人の意志で成就《じょうじゅ》もし破壊もするつもりではあるが、余の過去、――もっと大きくいえば、わが祖先が余の生れぬ前に残して行ってくれた過去が、余の仕事の幾分かを既に余の生れた時に限定してしまったような心持がする。自分は自分のする事についてあくまでも責任を負う料簡《りょうけん》ではあるが、自分をしてこの責任を負わしむるものは自己以外には遠い背景が控えているからだろうと思う。
そう考えながら、新しい眼で日本の過去を振り返って見ると、少し心細いような所がある。一国の歴史は人間の歴史で、人間の歴史はあらゆる能力の活動を含んでいるのだから政治に軍事に宗教に経済に各方面にわたって一望《いちぼう》したらどういう頼母《たのも》しい回顧《かいこ》が出来ないとも限るまいが、とくに余に密接の関係ある部門、即ち文学だけでいうと、殆んど過去から得るインスピレーションの乏しきに苦しむという有様《ありさま》である。人は『源氏物語』や近松《ちかまつ》や西鶴《さいかく》を挙げてわれらの過去を飾るに足る天才の発揮と見認《みと》めるかも知れないが、余には到底《とうてい》そんな己惚《うぬぼれ》は起せない。
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