『我輩は猫である』中篇自序
夏目漱石
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)稿を継《つ》ぐときには、
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)当時|彼地《かのち》の模様を
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)※[#コト、1−2−24]
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「猫」の稿を継《つ》ぐときには、大抵初篇と同じ程な枚数に筆を擱《お》いて、上下二冊の単行本にしようと思って居た。所が何かの都合で頁《ページ》が少し延びたので書肆《しょし》は上中下にしたいと申出た。其辺は営業上の関係で、著作者たる余には何等の影響もない事だから、それも善《よ》かろうと同意して、先《ま》ず是丈《これだけ》を中篇として発行する事にした。
そこで序をかくときに不図《ふと》思い出した事がある。余が倫敦《ロンドン》に居るとき、忘友子規の病を慰める為め、当時|彼地《かのち》の模様をかいて遙々《はるばる》と二三回長い消息をした。無聊《ぶりょう》に苦んで居た子規は余の書翰《しょかん》を見て大に面白かったと見えて、多忙の所を気の毒だが、もう一度何か書いてくれまいかとの依頼をよこした。此時子規は余程《よほど》の重体で、手紙の文句も頗《すこぶ》る悲酸《ひさん》であったから、情誼《じょうぎ》上何か認《したた》めてやりたいとは思ったものの、こちらも遊んで居る身分ではなし、そう面白い種をあさってあるく様な閑日月もなかったから、つい其儘《そのまま》にして居るうちに子規は死んで仕舞《しま》った。
筺底《きょうてい》から出して見ると、其手紙にはこうある。
僕ハモーダメニナッテシマッタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヨウナ次第ダ、ソレダカラ新聞雑誌ヘモ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廃止。ソレダカラ御無沙汰シテマス。今夜ハフト思イツイテ特別ニ手紙ヲカク。イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白カッタ。近来僕ヲ喜バセタ者ノ随一ダ。僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガッテ居タノハ君モ知ッテルダロー。夫《それ》ガ病人ニナッテシマッタノダカラ残念デタマラナイノダガ、君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ往《いっ》タヨウナ気ニナッテ愉快デタマラヌ。若《も》シ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ(無理ナ注文ダガ)
画ハガキモ慥《たしか》ニ受取タ。倫敦《ロンドン》ノ焼芋《やきいも》ノ味ハドンナカ聞キタイ。
不折ハ今|巴里《パリ》ニ居テコーラン[#「コーラン」に傍線]ノ処へ通ッテ居ルソウジャナイカ。君ニ逢《お》ウタラ鰹節一本贈ルナドトイウテ居タガ、モーソンナ者ハ食ウテシマッテアルマイ。
虚子ハ男子ヲ挙ゲタ。僕ガ年尾[#「年尾」に傍線]トツケテヤッタ。
錬郷死ニ非風死ニ皆僕ヨリ先ニ死ンデシマッタ。
僕ハ迚《とて》モ君ニ再会スル※[#コト、1−2−24]《こと》ハ出来ヌト思ウ。万一出来タトシテモ其時ハ話モ出来ナクナッテルデアロー。実ハ僕ハ生キテイルノガ苦シイノダ。僕ノ日記ニハ「古白曰来」ノ四字ガ特書シテアル処ガアル。
書キタイ※[#コト、1−2−24]《こと》ハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉エ。
明治卅四年十一月六日灯下ニ書ス
[#地より2字上げ]東京 子規 拝
倫敦《ロンドン》ニテ
漱石 兄
此手紙は美濃紙へ行書でかいてある。筆力は垂死の病人とは思えぬ程慥《たしか》である。余は此手紙を見る度《たび》に何だか故人に対して済まぬ事をしたような気がする。書きたいことは多いが苦しいから許してくれ玉え[#「書きたいことは多いが苦しいから許してくれ玉え」に傍点]とある文句は露佯《つゆいつわ》りのない所だが、書きたいことは書きたいが、忙がしいから許してくれ玉えと云う余の返事には少々の遁辞《とんじ》が這入《はい》って居る。憐《あわ》れなる子規は余が通信を待ち暮らしつつ、待ち暮らした甲斐《かい》もなく呼吸《いき》を引き取ったのである。
子規はにくい男である。嘗《かつ》て墨汁一滴か何かの中に、独乙《ドイツ》では姉崎や、藤代が独乙語で演説をして大喝采《だいかっさい》を博しているのに漱石は倫敦《ロンドン》の片田舎《かたいなか》の下宿に燻《くすぶ》って、婆さんからいじめられていると云う様な事をかいた。こんな事をかくときは、にくい男だが、書きたいことは多いが、苦しいから許してくれ玉え[#「書きたいことは多いが、苦しいから許してくれ玉え」に傍点]抔《など》と云われると気の毒で堪《たま》らない。余は子規に対して此気の毒を晴らさないうちに、とうとう彼を殺して仕舞《しま》った。
子規がいきて居たら「猫」を読んで何と云うか知らぬ。或《あるい》は倫敦消息は読みたいが「猫」は御免《ごめん》だと逃げるかも分らない。然し「猫」は余を有名にした
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