忘れ難きことども
松井須磨子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)呼吸《いき》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)丁度|後方《うしろ》から

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き](「演芸画報」大正七・一二)

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いろ/\
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 先生のことを思ひますと、唯私は悲しくなります。先生は、随分苦労をなさいました。ほつと呼吸《いき》をつく間もない位に、殆んど苦労のし通しでした。それを残らず傍にゐて見知つてゐるだけに、皆私には忘れられないことばかりです。
 先生は、ずつと以前から、私達一座を率ゐて西洋へ行つて見たいと云ふお考へを持つてゐらつしやいました。はなは、大連から露西亜《ろしあ》へ、露西亜から亜米利加《あめりか》の方へ行つて見たいと云つてゐらつしやいました。ところで、今年は其の大連から浦潮《うらじほ》の方まで行つて見ましたから、今度はのつけに亜米利加へ行つて、ずつと向うを巡廻して見たいと云つてゐらつしやいました。そして、一と廻り興行をしたら、あとに私達二人だけ残つて、私には向うの俳優学校へ入つて、二三年勉強したら好《い》いだらうと云つてゐらつしやいましたが、それも悲しい、思ひ出になつてしまひました。此の頃先生は、西洋へ持つていらつしやる脚本を拵《こしら》へる為に、種々《いろ/\》材料を集めてゐらつしやいましたが、それも皆悲しい遺品《かたみ》になつてしまひました。
 先生のお亡くなりになつたのは、五日の午前二時近くだつたと云ひますが、私は、そんなことはちつとも知らずに、其の時分は明治座で一心に舞台稽古をしてゐたのです。今其の事を考へますと、何とも云ひやうのない、情けない悲しい思ひがいたします。
 私は家を出たのは、四日の正午《ひる》頃でした。其の時分は、先生は特別に苦しい様子もありませんでした。ですから私は、無論それが最後にならうなどと云ふことは更に思ひ掛けませんでした。先生は其の時、「しつかり稽古をしてきてくれ」と云ふ意味のことをおつしやつて、私を励ましてくださいましたが、それが生涯忘れられない最後になつてしまひました。
 明治座の舞台稽古は、衣裳や鬘《かつら》の都合で、甚《ひど》く遅くなつたのです。私は其の間、早く稽
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