白い花
種田山頭火
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)石蕗《つわぶき》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)よさ[#「よさ」に傍点]
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私は木花よりも草花を愛する。春の花より秋の花が好きだ。西洋種はあまり好かない。野草を愛する。
家のまわりや山野渓谷を歩き廻って、見つかりしだい手あたり放題に雑草を摘んで来て、机上の壺に投げ入れて、それをしみじみ観賞するのである。
このごろの季節では、蓼、りんどう、コスモス、芒、石蕗《つわぶき》、等々何でもよい、何でもよさ[#「よさ」に傍点]を持っている。
草は壺に投げ入れたままで、そのままで何ともいえないポーズを表現する。なまじ[#「なまじ」に傍点]手を入れると、入れれば入れるほど悪くなる。
抛入花はほんとうの抛げ入れでなければならない。そこに流派の見方や個人の一手が加えられると、それは抛入[#「抛入」に傍点]でなくて抛挿[#「抛挿」に傍点]だ。
摘んで帰ってその草を壺に抛げ入れる。それだけでも草のいのちは歪められる。私はしばしばやはり「野におけ」の嘆息を洩らすのである。
人間の悩みは尽きない。私は堪えきれない場合にはよく酒を呷ったものである(今でもそういう悪癖がないとはいいきれないが)。酒はごまかす[#「ごまかす」に傍点]丈で救う力を持っていない。ごまかすことは安易だけれど、さらにまたごまかさなければならなくなる。そういう場合には諸君よ、山に登りましょう、林に分け入りましょう、野を歩きましょう、水のながれにそうて、私たちの身心がやすまるまで逍遥しましょうよ。
どうにもこうにも自分が自分を持てあますことがある。そのとき、露草の一茎がどんなに私をいたわってくれることか。私はソロモンの栄華と野の花のよそおいを対比して考察したりなんかしない。ソロモンの栄華は人間文化の一段階として、それはそれでよいではないか。野の花のよそおいは野の花のよそおいとして鑑賞せよ。
一茎草を拈《ねん》じて丈六の仏に化することもわるくないが、私は草の葉の一葉で足りる。足りるところに、私の愚が穏坐している。
死は誘惑する。生の仮面は脱ぎ捨てたくなるし、また脱ぎ捨てなければならないが、本当に生き抜くことのむずかしさよ。私は走り出て、そこらの芒の穂に触れる。……
若うして或は赤
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