は不幸な人だつた、幼にして母を失ひ、継母にいぢめられ、やゝ長じては父に死なれて、多少の遺産を守るに苦しんだ、そしてさらに不治の病気に犯され、青春の悦楽をも味ふことが出来なかつた、彼は樹明君の幼馴染であり、その縁をたどつて、私は一昨年の夏、庵が整ふまで、一ヶ月ばかりの間、その離座敷に起臥してゐた、彼は善良な人間だつた、句作したいといつて、私の句集なども読んでくれた、私は彼の余命がいくばくもなからうことを予感してゐたが、……樹明君は情にあつい人である、Tさんの友達としては樹明君だけだつたらしい、樹明君は病床のTさんを度々おとづれて、或る時は、東京音頭を唄うて、しかも踊つて慰めたといふ、病んで寂しがるTさんと酔うて踊る樹明君との人間的感応を考へるとき、私は涙ぐましくならざるを得ない。
晩の雑炊はおいしかつた、どうも私は食べ過ぎる(飲み過ぎるのは是非もないが)、一日二食にするか、一食は必らずお粥にしよう(胃拡張[#「胃拡張」に傍点]はルンペン病の一つだ、いや貧乏人はみんな胃拡張だ、腹いつぱい食べたい、といふのが彼等の念願だから、そして彼等は満腹感を味はなければ、食べた気持になれないのである、おいしいものを少し、よりも、まづくても多くを欲求するのである)。
何を食べてもうまい[#「何を食べてもうまい」に傍点]! 私は何と幸福者だらう、これも貧乏と行乞[#「貧乏と行乞」に傍点]とのおかげである。
句作道は即ち成仏道[#「句作道は即ち成仏道」に傍点]だ、句を味ふこと、句を作ることは、私にあつては、人生を味ふこと、生活を深めることだ。
主観と客観とが渾然一如となる、或は、自己と自然とが融合する、といふことも二つの形態に分けて考察するのがよい、即ち、融け込む人と融かし込む人[#「融け込む人と融かし込む人」に傍点]、言ひ換へれば、自己を自然のふところになげいれる人と、自然を自己にうちこむ人と二通りある、しかし、どちらも自然即自己[#「自然即自己」に傍点]、自己即自然[#「自己即自然」に傍点]の境地にあることに相違はないのである。
人間に想像[#「想像」に傍点]や空想[#「空想」に傍点]を許さないならば、そこには芸術はない、芸術上の真実[#「芸術上の真実」に傍点]は生活的事実[#「生活的事実」に傍点]から出て来るが、真実は必ずしも事実ではない(事実が必ずしも真実でないやうに)、芸術家の心
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