らかをこえた

法堂《ハツタウ》あけはなつ明けはなれてゐる

     大阪道頓堀

みんなかへる家はあるゆふべのゆきき

更けると涼しい月がビルの間から

今日の足音のいちはやく橋をわたりくる

     七月二十二日帰庵

ふたたびここに草もしげるまま

わたしひとりの音させてゐる

     自責

酔ざめの風のかなしく吹きぬける

鴉啼いたとて誰も来てはくれない

山羊はかなしげに草は青く

つくつくぼうし鳴いてつくつくぼうし

降れば水音がある草の茂りやう

     庵中独坐

こころおちつけば水の音

ひらひら蝶はうたへない

ぬれててふてふどこへゆく

大いに晴れわたり大根二葉

何おもふともなく柿の葉のおちることしきり

柚子の香のほのぼの遠い山なみ

にぎやかに柿をもいでゐる

     千人風呂

はだかで話がはづみます

からむものがない蔓草の枯れてゐる

米とぐところみぞそばのいつとなく咲いて

墓場あたたかうしててふてふ

山ふところの、ことしもここにりんだうの花

けさは涼しいお粥をいただく

     結婚したといふ子に

をとこべしをみなへしと咲きそろふべし

わかれて遠い人を、佃煮を、煮る

鎌をとぐ夕焼おだやかな

いつまで生きる曼珠沙華咲きだした

藪にいちにちの風がをさまると三日月

わたしと生れたことが秋ふかうなるわたし

歩くほかない草の実つけてもどるほかない

あたたかい白い飯が在る

ふつと影がかすめていつた風

風の明暗をたどる

立ちどまると水音のする方へ道

ほんのり咲いて水にうつり

草の咲けるを露のこぼるるを

吹きぬける秋風の吹きぬけるままに

やつと咲いて白い花だつた

落葉の濡れてかがやくを柿の落葉

悔いるこころの曼珠沙華燃ゆる

ふるさとの土の底から鉦たたき

月からひらり柿の葉

何を待つ日に日に落葉ふかうなる

涸れてくる水の澄みやう

草の枯るるにみそつちよ来たか

澄太おもへば柿の葉のおちるおちる

風は何よりさみしいとおもふすすきの穂

産んだまま死んでゐるかよかまきりよ

けふは凩のはがき一枚

草のうつくしさはしぐれつつしめやかな

洗へば大根いよいよ白し

しぐるる土をうちおこしては播く

     自嘲

影もぼそぼそ夜ふけのわたしがたべてゐる

冬木の月あかり寝るとする

ひよいと芋が落ちてゐたので芋粥にする

しぐれしたしうお墓を洗つていつた

秋ふかい水をもらうてもどる

ひとりの火をつくる

生きてしづかな寒鮒もろた

草はうつくしい枯れざま

藁塚藁塚とあたたかし

     樹明君に

落葉ふみくるその足音は知つてゐる

やつぱり一人はさみしい枯草

落葉してさらにしたしくおとなりの灯の

風の中からかあかあ鴉

葉の落ちて落ちる葉はない太陽

何事もない枯木雪ふる

ことしも暮れる火吹竹ふく

お正月が来るバケツは買へて水がいつぱい

     昭和十二年元旦

今日から新らしいカレンダーの日の丸

     自画像

ぼろ着て着ぶくれておめでたい顔で

あつまつてお正月の焚火してゐる

雪ふる食べるものはあつて雪ふる

みぞるる朝のよう燃える木に木をかさね

しみじみ生かされてゐることがほころび縫ふとき

いつも出てくる蕗のとう出てきてゐる

     緑平老に

かうして生きてはゐる木の芽や草の芽や

雪ふれば酒買へば酒もあがつた

ひらくよりしづくする椿まつかな

てふてふうらうら天へ昇るか

     自戒

一つあれば事足る鍋の米をとぐ


 柿の葉はうつくしい、若葉も青葉も――ことに落葉はうつくしい。濡れてかがやく柿の落葉に見入るとき、私は造化の妙にうたれるのである。

  あるけば草の実すわれば草の実
  あるけばかつこういそげばかつこう
 そのどちらかを捨つべきであらうが、私としてはいづれにも捨てがたいものがある。昨年東北地方を旅して、郭公が多いのに驚きつつ心ゆくまでその声を聴いた。信濃路では、生れて始めてその姿さへ観たのであつた。

  やつぱり一人がよろしい雑草
  やつぱり一人はさみしい枯草
 自己陶酔の感傷味を私自身もあきたらなく感じるけれど、個人句集では許されないでもあるまいと考へて敢て採録した。かうした私の心境は解つてもらへると信じてゐる。
[#地から1字上げ](昭和丁丑の夏、其中庵にて 山頭火)


   銃後


[#ここから5字下げ]
天われを殺さずして詩を作らしむ
われ生きて詩を作らむ
われみづからのまことなる詩を
[#ここで字下げ終わり]

     街頭所見

日ざかりの千人針の一針づつ

月のあかるさはどこを爆撃してゐることか

秋もいよいよふかうなる日の丸へんぽん

ふたたびは踏むまい土を踏みしめて征く

しぐれて雲のちぎれゆく支那をおもふ

     戦死者の家

ひつそりとして八ツ手花咲く

     遺骨を迎ふ

しぐれつつしづかにも六百五十柱

もくもくとしてしぐるる白い函をまへに

山裾あたたかなここにうづめます

凩の日の丸二つ二人も出してゐる

冬ぼたんほつと勇ましいたよりがあつた

雪へ雪ふる戦ひはこれからだといふ

勝たねばならない大地いつせいに芽吹かうとする

     遺骨を迎へて

いさましくもかなしくも白い函

街はおまつりお骨となつて帰られたか

     遺骨を抱いて帰郷する父親

ぽろぽろしたたる汗がましろな函に

お骨声なく水のうへをゆく

その一片はふるさとの土となる秋

みんな出て征く山の青さのいよいよ青く

馬も召されておぢいさんおばあさん

     ほまれの家

音は並んで日の丸はたたく

     歓送

これが最後の日本の御飯を食べてゐる、汗

ぢつと瞳が瞳に喰ひ入る瞳

案山子もがつちり日の丸ふつてゐる

     戦傷兵士

足は手は支那に残してふたたび日本に


   孤寒


だまつてあそぶ鳥の一羽が花のなか

春風の蓑虫ひよいとのぞいた

ひよいとのぞいて蓑虫は鳴かない

もらうてもどるあたたかな水のこぼるるを

とんからとんから何織るうららか

ひなたはたのしく啼く鳥も蹄かぬ鳥も

身のまはりはほしいままなる草の咲く

草の青さよはだしでもどる

草は咲くがままのてふてふ

藪から鍋へ筍いつぽん

ならんで竹の子竹になりつつ

窓にしたしく竹の子竹になる明け暮れ

風の中おのれを責めつつ歩く

われをしみじみ風が出て来て考へさせる

雷をまぢかに覚めてかしこまる

がちやがちやがちやがちや鳴くよりほかない

誰を待つとてゆふべは萩のしきりにこぼれ

声はまさしく月夜はたらく人人だ

雨ふればふるほどに石蕗の花

播きをへるとよい雨になる山のいろ

そこはかとなくそこら木の葉のちるやうに

ゆふべなごやかな親蜘蛛子蜘蛛

しんじつおちつけない草のかれがれ

しぐるるやあるだけの御飯よう炊けた

焼場水たまり雲をうつして寒く

     死線 四句

死はひややかな空とほく雲のゆく

死をひしと唐辛まつかな

死のしづけさは晴れて葉のない木

そこに月を死のまへにおく

いつとなく机に塵が冬めく

草の実が袖にも裾にもあたたかな

枯すすき枯れつくしたる雪のふりつもる

水に放つや寒鮒みんな泳いでゐる

一つあると蕗のとう二つ三つ

蕗のとうことしもここに蕗のとう

わかれてからのまいにち雪ふる

     母の四十七回忌

うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする

其中一人いつも一人の草萌ゆる

枯枝ぽきぽきおもふことなく

つるりとむげて葱の白さよ

鶲また一羽となればしきり啼く

なんとなくあるいて墓と墓との間

おのれにこもる藪椿咲いては落ち

春が来たいちはやく虫がやつて来た

啼いて二三羽春の鴉で

咳がやまない背中をたたく手がない

窓あけて窓いつぱいの春

しづけさ、竹の子みんな竹になつた

ひとり住めばあをあをとして草

朝焼夕焼食べるものがない

     自嘲

初孫がうまれたさうな風鈴の鳴る

雨を受けて桶いつぱいの美しい水

飛んでいつぴき赤蛙

げんのしようこのおのれひそかな花と咲く

また一日がをはるとしてすこし夕焼けて

     更に改作(昭和十五年二月)

草にすわり飯ばかりの飯をしみじみ

     行乞途上(改作追加)

草にすわり飯ばかりの飯


   旅心


葦の穂風の行きたい方へ行く

身にちかく水のながれくる

どこからともなく雲が出て来て秋の雲

飯のうまさが青い青い空

ごろりと草に、ふんどしかわいた

をなごやは夜がまだ明けない葉柳並木

秋風、行きたい方へ行けるところまで

ビルとビルとのすきまから見えて山の青さよ

朝の雨の石をしめすほど

     行旅病死者

霜しろくころりと死んでゐる

     老ルンペンと共に

草をしいておべんたう分けて食べて右左

朝のひかりへ蒔いておいて旅立つ

ちよいと渡してもらふ早春のさざなみ

なんとうまさうなものばかりがシヨウヰンドウ

     宇平居

石に水を、春の夜にする

     福沢先生旧邸

その土蔵はそのままに青木の実

ひつそり蕗のとうここで休まう

人に逢はなくなりてより山のてふてふ

ふつとふるさとのことが山椒の芽

どこでも死ねるからだで春風

たたへて春の水としあふれる

水をへだててをとことをなごと話が尽きない

旅人わたしもしばしいつしよに貝掘らう

うらうら蝶は死んでゐる

さくらまんかいにして刑務所

     病院に多々桜君を見舞ふ

投げ※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]しは白桃の蕾とくとくひらけ

     多々桜君の霊前にて

桃が実となり君すでに亡し

うららかにボタ山がボタ山に

     湯田名所

大橋小橋ほうたるほたる

このみちをたどるほかない草のふかくも

     妹の家

たまたまたづね来てその泰山木が咲いてゐて

泊ることにしてふるさとの葱坊主

ふるさとはちしやもみがうまいふるさとにゐる

うまれた家はあとかたもないほうたる

     温柔郷裏の井子居

きぬぎぬの金魚が死んで浮いてゐる

     華山山麓の友に

やうやくたづねあててかなかな


 孤寒[#「孤寒」に傍点]といふ語は私としても好ましいとは思はないが、私はその語が表現する限界を彷徨してゐる。私は早くさういふ句境から抜け出したい。この関頭を透過しなければ、私の句作は無礙自在であり得ない。
(孤高[#「孤高」に傍点]といふやうな言葉は多くの場合に於て夜郎自大のシノニムに過ぎない。)

 私の祖母はずゐぶん長生したが、長生したがためにかへつて没落転々の憂目を見た。祖母はいつも『業《ごふ》やれ業やれ』と呟いてゐた。私もこのごろになつて、句作するとき(恥かしいことには酒を飲むときも同様に)『業《ごふ》だな業だな』と考へるやうになつた。祖母の業やれ[#「業やれ」に傍点]は悲しいあきらめであつたが、私の業だな[#「業だな」に傍点]は寂しい自覚である。私はその業を甘受してゐる。むしろその業を悦楽してゐる。

  凩の日の丸二つ二人も出してゐる
  音は並んで日の丸はたたく
 二句とも同一の事変現象をうたつた作であるが(季は違つてゐたが)、前句は眼から心への、後句は耳から心への印象表現として、どちらも残しておきたい。

  しみじみ食べる飯ばかりの飯である
  草にすわり飯ばかりの飯
 やうやくにして改作することが出来た。両句は十年あまりの歳月を隔ててゐる。その間の生活過程を顧みると、私には感慨深いものがある。
[#地から1字上げ](昭和十三年十月、其中庵にて 山頭火)


   鴉


水のうまさを蛙鳴く

寝床まで月を入れ寝るとする

生えて墓揚の、咲いてうつくしや

むしあつく生きものが生きものの中に

山からしたたる水である

まひまひしづか
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