びしがるではないが

誰か来さうな雪がちらほら

ふくろうはふくろうでわたしはわたしでねむれない

汽車のひびきも夜明けらしい楢の葉の鳴る

月がうらへまはつても木かげ

枯れたすすきに日の照れば誰か来さうな

何もかも雑炊としてあたたかく

蓑虫もしづくする春が来たぞな

     病みほほけて信濃より帰庵

草や木や生きて戻つて茂つてゐる

病みて一人の朝がゆふべとなりゆく青葉

柿の若葉のかがやく空を死なずにゐる

蜂がてふちよが草がなんぼでも咲いて

けさは水音も、よいたよりでもありさうな

いつもつながれてほえるほかない犬です

ほんにしづかな草の生えては咲く

生えて伸びて咲いてゐる幸福

閉めて一人の障子を虫が来てたたく

影もはつきりと若葉

ひよいと穴からとかげかよ

誰も来てくれない蕗の佃煮を煮る

     千人風呂

ちんぽこもおそそも湧いてあふれる湯

うれしいこともかなしいことも草しげる

ひとりひつそり竹の子竹になる

山から山がのぞいて梅雨晴れ

朝からはだかでとんぼがとまる

食べる物はあつて酔ふ物もあつて雑草の雨

炎天のはてもなく蟻の行列

蜘蛛は網張る私は私を肯定する

いつでも死ねる草が咲いたり実つたり

日ざかり落ちる葉のいちまい

霽れててふてふ二つとなり三つとなり

青空したしくしんかんとして

ここにわたしがつくつくぼうしがいちにち

百合咲けばお地蔵さまにも百合の花

草にも風が出てきた豆腐も冷えただろ

風がすずしく吹きぬけるので蜂もとんぼも

ふるさとの水をのみ水をあび

ここを死に場所とし草のしげりにしげり

誰にあげよう糸瓜の水をとります

お彼岸のお彼岸花をみほとけに

彼岸花さくふるさとはお墓のあるばかり

秋風の、腹立ててゐるかまきりで

おちついて柿もうれてくる

重荷を負うてめくらである

つくつくぼうしあまりにちかくつくつくぼうし

柿の木のむかうから月が柿の木のうへ

寝床へ日がさす柿の葉や萱の穂や

何か足らないものがある落葉する

     郵便屋さん

たより持つてきて熟柿たべて行く

百舌鳥のさけぶやその葉のちるや

     樹明君に

うらから来てくれて草の実だらけ

ともかくも生かされてはゐる雑草の中


   旅から旅へ


わかれてきた道がまつすぐ

月も水底に旅空がある

柳があつて柳屋といふ涼しい風

みんなたつしやでかぼちやの花も

夕立晴れるより山蟹の出てきてあそぶ

そこから青田のよい湯かげん

昼寝さめてどちらを見ても山

旅はいつしか秋めく山に霧のかかるさへ

よい宿でどちらも山で前は酒屋で

すわれば風がある秋の雑草

ここで寝るとする草の実のこぼれる

萩がすすきがけふのみち

     白船居

うらに木が四五本あればつくつくぼうし

道がなくなり落葉しようとしてゐる

木の葉ふるふる鉢の子へも

柳ちるそこから乞ひはじめる

よい道がよい建物へ、焼場です

     長門峡

いま写します紅葉が散ります

あるけば草の実すわれば草の実

春が来た水音の行けるところまで

梅もどき赤くて機嫌のよい目白頬白

春寒のをなごやのをなごが一銭持つて出てくれた

さて、どちらへ行かう風がふく

この道しかない春の雪ふる

けふはここまでの草鞋をぬぐ

     石鴨荘

草山のしたしさは鶯も啼く

いつとなくさくらが咲いて逢うてはわかれる

     橋畔亭

先生のあのころのことも楓の芽

樹が倒れてゐる腰をかける

     津島同人に

おわかれの水鳥がういたりしづんだり

燕とびかふ旅から旅へ草鞋を穿く

     名古屋同人に

もう逢へますまい木の芽のくもり

乞ひあるく水音のどこまでも

     木曾路 三句

飲みたい水が音たててゐた

山ふかく蕗のとうなら咲いてゐる

山しづかなれば笠をぬぐ

     飯田にて病む 二句

まこと山国の、山ばかりなる月の

あすはかへらうさくらちるちつてくる


 山行水行[#「山行水行」に傍点]はサンコウスイコウとも或はまたサンギヨウスイギヨウとも読まれてかまはない。私にあつては、行くことが修することであり、歩くことが行ずることに外ならないからである。

 昨年の八月から今年の十月までの間に吐き捨てた句数は二千に近いであらう。その中から拾ひあげたのが三百句あまり、それをさらに選り分けて纏めたのが以上の百四十一句である。うたふもののよろこびは力いつぱいに自分の真実をうたふことである。この意味に於て、私は恥ぢることなしにそのよろこびをよろこびたいと思ふ。

  あるけばきんぽうげすわればきんぽうげ
  あるけば草の実すわれば草の実
 この二句は同型同曲である。どちらも行乞途上に於ける私の真実をうたつた作であるが、現在の私としては前句を捨てて後句を残すことにする。

 私はやうやく『存在の世界』にかへつて来て帰家穏坐とでもいひたいここちがする。私は長い間さまようてゐた。からだがさまようてゐたばかりでなく、こころもさまようてゐた。在るべきものに苦しみ、在らずにはゐないものに悩まされてゐた。そしてやうやくにして、在るものにおちつくことができた。そこに私自身を見出したのである。
 在るべきものも在らずにはゐないものもすべてが在るものの中に蔵されてゐる。在るものを知るときすべてを知るのである。私は在るべきものを捨てようとするのではない、在らずにはゐないものから逃れようとするのではない。
『存在の世界』を再認識して再出発したい私の心がまへである。
 うたふものの第一義はうたふことそのことでなければならない。私は詩として私自身を表現しなければならない。それこそ私のつとめであり同時に私のねがひである。
[#地から1字上げ](昭和九年の秋、其中庵にて 山頭火)


   雑草風景


柿が赤くて住めば住まれる家の木として

みごもつてよろめいてこほろぎかよ

日かげいつか月かげとなり木のかげ

残された二つ三つが熟柿となる雲のゆきき

みんなではたらく刈田ひろびろ

誰も来ないとうがらし赤うなる

病めば梅ぼしのあかさ

なんぼう考へてもおんなじことの落葉ふみあるく

落葉ふかく水汲めば水の澄みやう

     病中 二句

寝たり起きたり落葉する

ほつかり覚めてまうへの月を感じてゐる

月のあかるい水汲んでおく

     白船老に

あなたを待つてゐる火のよう燃える

ちよいと茶店があつて空瓶に活けた菊

     多賀治第二世の出生を祝して

お日様のぞくとすやすや寝顔

悔いるこころに日が照り小鳥来て啼くか

落葉ふんで豆腐やさんが来たので豆腐を

枯れゆく草のうつくしさにすわる

冬がまた来てまた歯がぬけることも

噛みしめる味も抜けさうな歯で

竹のよろしさは朝風のしづくしつつ

霽れて元日の水がたたへていつぱい

舫ひてここに正月の舳をならべ

枯木に鴉が、お正月もすみました

どこからともなく散つてくる木の葉の感傷

しぐれつつうつくしい草が身のまはり

ひつそり暮らせばみそさざい

ぶらりとさがつて雪ふる蓑虫

雪もよひ雪にならない工場地帯のけむり

あたたかなれば木かげ人かげ

住みなれて藪椿いつまでも咲き

あるがまま雑草として芽をふく

ぬくうてあるけば椿ぽたぽた

風がほどよく春めいた藪と藪

ほろにがさもふるさとの蕗のとう

ゆらいで梢もふくらんできたやうな

山から白い花を机に

ある日は人のこひしさも木の芽草の芽

人声のちかづいてくる木の芽あかるく

伸びるより咲いてゐる

草のそよげば何となく人を待つ

ひとりたがやせばうたふなり

花ぐもりの窓から煙突一本

ひつそり咲いて散ります

枇杷が枯れて枇杷が生えてひとりぐらし

照れば鳴いて曇れば鳴いて山羊がいつぴき

空へ若竹のなやみなし

身のまはりは草だらけみんな咲いてる

ころり寝ころべば青空

何を求める風の中ゆく

草を咲かせてそしててふちよをあそばせて

青葉の奥へなほ径があつて墓

それもよからう草が咲いてゐる

月がいつしかあかるくなればきりぎりす

木かげは風がある旅人どうし

日の光ちよろちよろとかげとかげ

月のあかるさがうらもおもてもきりぎりす

     樹明君に

あんたが来てくれさうなころの風鈴

炎天の稗をぬく

てふてふもつれつつかげひなた

もう枯れる草の葉の雨となり

くづれる家のひそかにくづれるひぐらし

     病中 五句

死んでしまへば雑草雨ふる

死をまへに涼しい風

風鈴の鳴るさへ死のしのびよる

おもひおくことはないゆふべの芋の葉ひらひら

傷が癒えゆく秋めいた風となつて吹く

秋風の水音の石をみがく

萩が径へまでたまたま人の来る

月へ萱の穂の伸びやう

旅はゆふかげの電信棒のつくつくぼうし

つきあたれば秋めく海でたたへてゐる


 題して『雑草風景』といふ、それは其中庵風景であり、そしてまた山頭火風景である。
 風景は風光とならなければならない。音が声となり、かたちがすがたとなり、にほひがかをりとなり、色が光となるやうに。

 私は雑草的存在に過ぎないけれどそれで満ち足りてゐる。雑草は雑草として、生え伸び咲き実り、そして枯れてしまへばそれでよろしいのである。

 或る時は澄み或る時は濁る。――澄んだり濁つたりする私であるが、澄んでも濁つても、私にあつては一句一句の身心脱落であることに間違ひはない。

 此の一年間に於て私は十年老いたことを感じる(十年間に一年しか老いなかつたこともあつたやうに)。そして老来ますます惑ひの多いことを感じないではゐられない。かへりみて心の脆弱、句の貧困を恥ぢ入るばかりである。
[#地から1字上げ](昭和十年十二月二十日、遠い旅路をたどりつつ 山頭火)


   柿の葉


[#ここから5字下げ]
昭和十年十二月六日、庵中独坐に堪へかねて旅立つ
[#ここで字下げ終わり]

水に雲かげもおちつかせないものがある

     生野島無坪居

あたたかく草の枯れてゐるなり

旅は笹山の笹のそよぐのも

     門司埠頭

春潮のテープちぎれてなほも手をふり

     ばいかる丸にて

ふるさとはあの山なみの雪のかがやく

     宝塚へ

春の雪ふる女はまことうつくしい

あてもない旅の袂草こんなにたまり

たたずめば風わたる空のとほくとほく

     宇治平等院 三句

雲のゆききも栄華のあとの水ひかる

春風の扉ひらけば南無阿弥陀仏

うららかな鐘を撞かうよ

     伊勢神宮

たふとさはましろなる鶏

     魚眠洞君と共に

けふはここに来て枯葦いちめん

麦の穂のおもひでがないでもない

     浜名湖

春の海のどこからともなく漕いでくる

鎌倉はよい松の木の月が出た

伊豆はあたたかく野宿によろしい波音も

また一枚ぬぎすてる旅から旅

ほつと月がある東京に来てゐる

花が葉になる東京よさようなら

     甲信国境

行き暮れてなんとここらの水のうまさは

のんびり尿する草の芽だらけ

     信濃路

あるけばかつこういそげばかつこう

からまつ落葉まどろめばふるさとの夢

     江畔老に

浅間をまともにおべんたうは草の上にて

     碓氷山中にて路を失ふ

山のふかさはみな芽吹く

     国上山

青葉わけゆく良寛さまも行かしたろ

     日本海岸

こころむなしくあらなみのよせてはかへし

砂丘にうづくまりけふも佐渡は見えない

荒海へ脚投げだして旅のあとさき

水底の雲もみちのくの空のさみだれ

あうたりわかれたりさみだるる

水音とほくちかくおのれをあゆます

     毛越寺

草のしげるや礎石ところどころのたまり水

     平泉

ここまでを来し水飲んで去る

     永平寺 三句

水音のたえずして御仏とあり

てふてふひらひらい
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