柳があつて柳屋といふ涼しい風
みんなたつしやでかぼちやの花も
夕立晴れるより山蟹の出てきてあそぶ
そこから青田のよい湯かげん
昼寝さめてどちらを見ても山
旅はいつしか秋めく山に霧のかかるさへ
よい宿でどちらも山で前は酒屋で
すわれば風がある秋の雑草
ここで寝るとする草の実のこぼれる
萩がすすきがけふのみち
白船居
うらに木が四五本あればつくつくぼうし
道がなくなり落葉しようとしてゐる
木の葉ふるふる鉢の子へも
柳ちるそこから乞ひはじめる
よい道がよい建物へ、焼場です
長門峡
いま写します紅葉が散ります
あるけば草の実すわれば草の実
春が来た水音の行けるところまで
梅もどき赤くて機嫌のよい目白頬白
春寒のをなごやのをなごが一銭持つて出てくれた
さて、どちらへ行かう風がふく
この道しかない春の雪ふる
けふはここまでの草鞋をぬぐ
石鴨荘
草山のしたしさは鶯も啼く
いつとなくさくらが咲いて逢うてはわかれる
橋畔亭
先生のあのころのことも楓の芽
樹が倒れてゐる腰をかける
津島同人に
おわかれの水鳥がういたりしづんだり
燕とびかふ旅から旅へ草鞋を穿く
名古屋同人に
もう逢へますまい木の芽のくもり
乞ひあるく水音のどこまでも
木曾路 三句
飲みたい水が音たててゐた
山ふかく蕗のとうなら咲いてゐる
山しづかなれば笠をぬぐ
飯田にて病む 二句
まこと山国の、山ばかりなる月の
あすはかへらうさくらちるちつてくる
山行水行[#「山行水行」に傍点]はサンコウスイコウとも或はまたサンギヨウスイギヨウとも読まれてかまはない。私にあつては、行くことが修することであり、歩くことが行ずることに外ならないからである。
昨年の八月から今年の十月までの間に吐き捨てた句数は二千に近いであらう。その中から拾ひあげたのが三百句あまり、それをさらに選り分けて纏めたのが以上の百四十一句である。うたふもののよろこびは力いつぱいに自分の真実をうたふことである。この意味に於て、私は恥ぢることなしにそのよろこびをよろこびたいと思ふ。
あるけばきんぽうげすわればきんぽうげ
あるけば草の実すわれば草の実
この二句は同型同曲である。どちらも行乞途上に於ける私の真実をうたつた作であるが、現在の私としては前句を捨てて後句を残すことにする。
私はやうやく『存在の世界』にかへつて来て帰家穏坐とでもいひたいここちがする。私は長い間さまようてゐた。からだがさまようてゐたばかりでなく、こころもさまようてゐた。在るべきものに苦しみ、在らずにはゐないものに悩まされてゐた。そしてやうやくにして、在るものにおちつくことができた。そこに私自身を見出したのである。
在るべきものも在らずにはゐないものもすべてが在るものの中に蔵されてゐる。在るものを知るときすべてを知るのである。私は在るべきものを捨てようとするのではない、在らずにはゐないものから逃れようとするのではない。
『存在の世界』を再認識して再出発したい私の心がまへである。
うたふものの第一義はうたふことそのことでなければならない。私は詩として私自身を表現しなければならない。それこそ私のつとめであり同時に私のねがひである。
[#地から1字上げ](昭和九年の秋、其中庵にて 山頭火)
雑草風景
柿が赤くて住めば住まれる家の木として
みごもつてよろめいてこほろぎかよ
日かげいつか月かげとなり木のかげ
残された二つ三つが熟柿となる雲のゆきき
みんなではたらく刈田ひろびろ
誰も来ないとうがらし赤うなる
病めば梅ぼしのあかさ
なんぼう考へてもおんなじことの落葉ふみあるく
落葉ふかく水汲めば水の澄みやう
病中 二句
寝たり起きたり落葉する
ほつかり覚めてまうへの月を感じてゐる
月のあかるい水汲んでおく
白船老に
あなたを待つてゐる火のよう燃える
ちよいと茶店があつて空瓶に活けた菊
多賀治第二世の出生を祝して
お日様のぞくとすやすや寝顔
悔いるこころに日が照り小鳥来て啼くか
落葉ふんで豆腐やさんが来たので豆腐を
枯れゆく草のうつくしさにすわる
冬がまた来てまた歯がぬけることも
噛みしめる味も抜けさうな歯で
竹のよろしさは朝風のしづくしつつ
霽れて元日の水がたたへていつぱい
舫ひてここに正月の舳をならべ
枯木に鴉が、お正月もすみました
どこからともなく散つてくる木の葉の感傷
しぐれつつうつくしい草が身のまはり
ひつそり暮らせばみそさざい
ぶらりとさがつて雪ふる蓑虫
雪もよひ雪にならな
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