病院に多々桜君を見舞ふ
投げ※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]しは白桃の蕾とくとくひらけ
多々桜君の霊前にて
桃が実となり君すでに亡し
うららかにボタ山がボタ山に
湯田名所
大橋小橋ほうたるほたる
このみちをたどるほかない草のふかくも
妹の家
たまたまたづね来てその泰山木が咲いてゐて
泊ることにしてふるさとの葱坊主
ふるさとはちしやもみがうまいふるさとにゐる
うまれた家はあとかたもないほうたる
温柔郷裏の井子居
きぬぎぬの金魚が死んで浮いてゐる
華山山麓の友に
やうやくたづねあててかなかな
孤寒[#「孤寒」に傍点]といふ語は私としても好ましいとは思はないが、私はその語が表現する限界を彷徨してゐる。私は早くさういふ句境から抜け出したい。この関頭を透過しなければ、私の句作は無礙自在であり得ない。
(孤高[#「孤高」に傍点]といふやうな言葉は多くの場合に於て夜郎自大のシノニムに過ぎない。)
私の祖母はずゐぶん長生したが、長生したがためにかへつて没落転々の憂目を見た。祖母はいつも『業《ごふ》やれ業やれ』と呟いてゐた。私もこのごろになつて、句作するとき(恥かしいことには酒を飲むときも同様に)『業《ごふ》だな業だな』と考へるやうになつた。祖母の業やれ[#「業やれ」に傍点]は悲しいあきらめであつたが、私の業だな[#「業だな」に傍点]は寂しい自覚である。私はその業を甘受してゐる。むしろその業を悦楽してゐる。
凩の日の丸二つ二人も出してゐる
音は並んで日の丸はたたく
二句とも同一の事変現象をうたつた作であるが(季は違つてゐたが)、前句は眼から心への、後句は耳から心への印象表現として、どちらも残しておきたい。
しみじみ食べる飯ばかりの飯である
草にすわり飯ばかりの飯
やうやくにして改作することが出来た。両句は十年あまりの歳月を隔ててゐる。その間の生活過程を顧みると、私には感慨深いものがある。
[#地から1字上げ](昭和十三年十月、其中庵にて 山頭火)
鴉
水のうまさを蛙鳴く
寝床まで月を入れ寝るとする
生えて墓揚の、咲いてうつくしや
むしあつく生きものが生きものの中に
山からしたたる水である
まひまひしづか
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