最も孤独を体験する、出かけた時のまゝの物みなすべてが、そのまゝである、壺の花は枯れても机は動いてゐない、たゞ、さうだ、たゞ、そのまゝのものに雪がふつてゐる、だ。
当分、酒は飲まないつもりだつたが、何となく憂欝になるし、新シヨウガのよいのが見つかつたので、宿のおばさんに頼んで、一升とつてもらつた、ちようど隣室のお客さんもやつてこられたので、だいぶ飲んで話した、……ふと眼がさめたら、いつのまにやら、自分の寝床に寝てゐる自分だつた。
八月十日
晴れて、さら/\風がふく、夏から秋へ、それは敏感なルンペンの最も早く最も強く感じるところだ。
昨日今日、明日も徴兵検査で、近接の村落から壮丁が多数やつて来てゐる、朝湯などは満員で、とてもはいれなかつた。
妙青寺の山門には『小倉聯隊徴兵署』といふ大きな木札がかけてある、そこは老松の涼しいところ、不許葷酒入山門といふ石標の立つところ、石段を昇降する若人に対して感謝と尊敬とを捧げる。
昨夜、酒を飲んだが(肴も食べて)何となく今朝は工合が悪い、私にはやつぱり禁慾生活[#「禁慾生活」に傍点]がふさはしい。
酒を飲ま[#「飲ま」に傍点]なくなつたことは事実だ、正確にいへば、飲め[#「飲め」に傍点]なくなつたのだ、経済的でなく、肉体的乃至精神的なもののために、――よし、よし、これからは酒を飲む代りに本を読まう、アルコールよりカルモチンといふほどの意味で。
こゝでもそこでも子供が泣く、何とまあよく泣く子供だらう、私はまだ/\修行が足らない、とても人間の泣声を蝉や蛙や鳥や虫の鳴声とおなじには聞いてゐられないから、そして子供の泣声を聞くとぢつとしてはゐられない。
Sからの手紙は私を不快にした、それが不純なものでないことは、少くとも彼女の心に悪意のない事はよく解つてゐるけれど、読んで愉快ではなかつた、男の心は女には、殊に彼女のやうな女には酌み取れないらしい、是非もないといへばそれまでだけれど、何となく寂しく悲しくなる。
それやこれやで、野を歩きまはつた、歩きまはつてゐるうちに気持が軽くなつた、桔梗一株を見つけてその一株を折つて戻つた、花こそいゝ迷惑だつた!
[#ここから2字下げ]
・やつぱりうまい水があつたよ(再録)
・蘭竹の葉の秋めいてそよぎはじめた
・別れてからもう九日の月が出てゐる
・去る音の夜がふかい
[#ここで字下げ終わり]
夕の散歩をする、狭い街はどこも青年の群だ、老人の侵入を許さなかつた。
真夜中、妙な男に敲き起された、バクチにまけたとか何とかいつて泊めてくれといふ、無論、宿では泊めなかつた、その時の一句が前記の最後の句である。
八月十一日
コドモ朝起会の掃除日ださうで、まだ明けきらないうちから騷々しい、やがてラヂオ体操がはじまる、いやはや賑やかな事であります。
何となく穏やかならぬ天候である、颱風来の警報もうなづかれる、だが其中庵は大丈夫だよ。
若い蟷螂が頭にとまつた、カマキリ、カマキリ、ウラワカイカマキリに一句デヂケートしようか。
宿のおばさんが「あかざ」の葉をむしてゐる、あかざとはめづらしい、そのおひたし一皿いたゞきたい。
今日此頃は水瓜シーズンだ、川棚水瓜は名物で、名物だけの美味を持つてゐるさうだが(私は水瓜だけでなく、あまり水菓子を食べないから、その味はひが解らない)一貫十二銭、肥料代がとれないといふ、現代は自然的産物[#「自然的産物」に傍点]が安すぎる。
刈萱[#「刈萱」に傍点]を活けた、何といふ刈萱のよろしさ!
今日は暑かつた、吹く風が暑かつた、しかし、どんなに暑くても私は夏の礼讃者だ、浴衣一枚、裸体と裸体とのしたしさは夏が、夏のみが与へる恩恵だ。
[#ここから2字下げ]
・朝焼すゞしいラヂオ体操がはじまりました
・炎天、まけとけまからないとあらそうてゐる
[#ここで字下げ終わり]
八月十二日
曇、よいおしめりではあつた。
今朝の湯壺もよかつた、しづかで、あつくて、どん/\湯が流れて溢れてゐた、その中へ飛び込む、手足を伸ばす、これこそ、優遊自適だつた。
緑平老から返信、それは珍品[#「珍品」に白三角傍点]をもたらしたのである。
早速、小串町まで出かけて買物をする、両手にさげるほどの買物だ、曰く本、曰く線香、曰く下駄、曰く鍋、曰く何、曰く何、等、等、等。
南無緑平老菩薩! 十万三世一切仏、諸尊菩薩摩[#「摩」に「マヽ」の注記]薩、摩訶般若波羅蜜。
八月十三日
空晴れ心晴れる、すべてが気持一つだ。
其中庵は建つ、――だが――私はやつぱり苦しい、苦しい、こんなに苦しんでも其中庵を建てたいのか、建てなければならないのか。――
[#ここから3字下げ]
夏草ふかく自動車乗り捨てゝある夕陽
[#ここで字下げ終わり]
八月十四日
朝から墨をすつて大筆をふりまはす、何といふまづい字[#「まづい字」に傍点]だらう、まづいのはいゝ、何といふいやしい字[#「いやしい字」に傍点]だらう。
うれしいこゝろがしづむ[#「うれしいこゝろがしづむ」に傍点]、晴れて曇る!
八月十五日
何といふ苦しい立場だらう、仏に対して、友に対して、私自身に対して。
やつぱりムリ[#「ムリ」に白三角傍点]があるのだ、そのムリ[#「ムリ」に白三角傍点]をとりのぞけば壊滅だ、あゝ、ムリ[#「ムリ」に白三角傍点]か、ムリ[#「ムリ」に白三角傍点]か、そのムリは私のすべてをつらぬいてながれてゐるのだ、造庵がムリ[#「ムリ」に白三角傍点]なのぢやない、生存そのものがムリ[#「ムリ」に白三角傍点]なのだ。
茗荷の子を食べる、かなしいうまさだつた。
八月十六日
いよ/\秋だ、友はまだ来てくれない、私はいはゆる『昏沈』の状態に陥りつゝあるやうだ。
待つてゐる物が――それがなければ造庵にとりかゝれない物が来ない。
今日もやつぱり待ちぼけだつたのか。
[#ここから2字下げ]
・虫が鳴く一人になりきつた
・けさも青柿一つ落ちてゐて
[#ここで字下げ終わり]
八月十七日
やつぱりいけない、捨鉢気分で飲んだ、その酒の苦さ、そしてその酔の下らなさ。
小郡から電話がかゝる、Jさんから、Kさんから、――来る、来るといつて来なかつた。
また飲む、かういふ酒しか飲めないとは悲しい宿命[#「悲しい宿命」に傍点]である。
[#ここから2字下げ]
・あてもない空からころげてきた木の実
[#ここで字下げ終わり]
此句には多少の自信がある、それは断じて自惚ぢやない、あてもない[#「あてもない」に傍線]に難がないことはあるまいけれど(あてもない[#「あてもない」に傍線]は何処まで行く、何処へ行かう、何処へも行けないのに行かなければならない、といつたやうな複雑な意味を含んでゐるのである)。
八月十八日
近来にない動揺であり、そしてそれだけ深い反省だつた、生死、生死、生死、生死と転々した。
アルコールよりカルモチンへ、どうやらかういふやうに転向しつゝあるやうである、気分の上でなしに、肉体に於て。
待つ物来らず、ほんとうに緑平老に対してすまない、誰に対してもすまない。
八月十九日
何事も因縁時節、いら/\せずに、ぢつとして待つてをれ、さうするより外ない私ではないか。
入浴、剃髪、しんみりとした気持になつて隣室の話をきく、あゝ母性愛、母といふものがどんなに子といふものを愛するかを実証する話だ、彼等(一人の母と三人の子と)は動物に近いほどの愛着を体感しつゝあるのだ。……
父としての私は、あゝ、私は一度でも父らしく振舞つたことがあるか、私はほんとうにすまなく思ふ、私はすまない、すまないと思ひつゝ、もう一生を終らうとしてゐるのだ。……
八月廿日
やつと心気一転、秋空一碧。
初めてつく/\ぼうしをきいた、つく/\ぼうし、つく/\ぼうし、こひしいなあ。
いよ/\身心一新だ、くよ/\するな、けち/\するな、たゞひとすぢをすゝめ。
八月廿一日
ほんとうに秋だ、何よりも肌ざわりの秋。
正さん(此宿の二男)と飲んだ、お嫁さんのお酌で、気持よく飲みあつた、ちと新家庭を妨げなかつたでもないらしい。
売家があるといふので問合にいつた。
八月廿二日
今日も家の事で胸いつぱいだ、売家が二つ三つある、その一つが都合よければ、其中庵も案外早く、そして安く出来るだらう、うれしいことである。
[#ここから3字下げ]
逢うて別れる月が出た
[#ここで字下げ終わり]
八月廿三日
何となく穏やかでない天候だつたが、それが此頃としては当然だが、私は落ちついて読書した。
旅がなつかしくもある、秋風が吹きはじめると、風狂の心、片雲の思が起つてくる、……しかし、私は落ちついてゐる、もう落ちついてもよい年である。
[#ここから2字下げ]
・咲いてしやくなぎのはな(改作)
[#ここで字下げ終わり]
此句は悪くないと思ふが、どうか知ら。
八月廿四日
晴れてきた、うれしい電話がかゝつてきた、――いよ/\敬坊が今日やつてくるといふのである。
駅まで出迎に行く、一時間がとても長かつた、やあ、やあ、やあ、やあ、そして。――
友はなつかしい、旧友はとてもなつかしい、飲んだ、話した、酒もかういふ酒がほんとうにうまいのである。
[#ここから2字下げ]
・家をめぐる青田風よう出来てゐる
[#ここで字下げ終わり]
八月廿五日
朝の散歩、そして朝の対酌、いゝですね!
彼は帰る、私に小遣までくれて帰る、逢へば別れるのだ、逢うてうれしや別れのつらさだ、早く、一刻も早く、奥さんのふところに、子供の手にかへれ。
自動車――バスはいやなものだよ、ゆれるばかりで、さうだ、ゆれるばかりだ。
朝の散歩で摘んできたのは毒薬草[#「毒薬草」に傍点]だつた、ウツグサとかいふのださうな、毒か薬か、毒即薬だ。
[#ここから2字下げ]
一人となればつくつくぼうし
□
・若葉に若葉がかさなつた(酒壺洞第二世出生)
[#ここで字下げ終わり]
残暑といふものを知つた、いや味つた。
[#ここから2字下げ]
アキアツクケツアンノカネヲマツ
(秋暑く結庵の金を待つ)緑平老へ電報
[#ここで字下げ終わり]
夕方、S氏を訪ねる、これで三回も足を運んだのである、そして土地借入の保證を懇願したのである、そしてまた拒絶を戴いたのである、彼は世間慣れがしてゐるだけに、言葉も態度も堂に入つてゐる、かういふ人と対座対談してゐると、いかにも私といふ人間が、世間人として練れてゐないかゞよく解る、無理矢理に押しつける訳に行かないから、失望と反抗とを持つて戻つた。
夜、Kさんに前後左右の事情を話して、此場合何か便法はあるまいかと相談したけれど乗つてくれない(彼も亦、一種の変屈人である)。
茶碗酒を二三杯ひつかけて寝た。
八月廿六日 川棚温泉、木下旅館。
秋高し、山桔梗二株活けた、女郎花一本と共に。
いよ/\決心した、私は文字通りに足元から鳥が立つやうに、川棚をひきあげるのだ、さうするより外ないから。……
形勢急転、疳癪破裂、即時出立、――といつたやうな語句しか使へない。
其中庵遂に流産、しかしそれは川棚に於ける其中庵の流産だ、庵居の地は川棚に限らない、人間至るところ山あり水あり、どこにでもあるのだ[#「どこにでもあるのだ」に傍点]、私の其中庵は[#「私の其中庵は」に傍点]!
ヒトモジ一把一銭、うまかつた、憂欝を和げてくれた、それは流転の香味のやうでもあつたが。
精霊とんぼがとんでゐる、彼等はまことに秋のお使である。
[#ここから2字下げ]
・いつも一人で赤とんぼ
[#ここで字下げ終わり]
今夜もう一夜だけ滞在することにする、湯にも酒にも、また人にも(彼氏に彼女に)名残を惜しまうとするのであるか。……
八月廿七日 樹明居。
晴、残暑のきびしさ、退去のみじめさ。
百日の滞在が倦怠となつたゞけだ、生きることのむつかしさを今更のやうに教へられたゞけだ、世間といふものがどんなに意地悪いかを如実に見せつけられたゞけだつた、とにかく、事こゝに到つては万事休す、去る外ない。
[#ここから3字下げ]
けふはおわか
前へ
次へ
全14ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
種田 山頭火 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング