七月一日 木下旅館。

雨、終日読書、自省と克己と十分であつた、そして自己清算の第一日(毎日がさうだらう)。
伊東君に手紙を書く、愚痴をならべたのである、君の温情は私の一切を容れてくれる。
私は長いこと、死生の境[#「死生の境」に傍点]をさまようてゐる、時としてアキラメに落ちつかうとし(それはステバチでないと同時にサトリではない)時として、エゴイズムの殻から脱しようとする、しかも所詮、私は私を彫りつゝあるに過ぎないのだ。……
例の如く不眠がつゞく、そして悪夢の続映だ! あまりにまざ/\と私は私の醜悪を見せ[#「見せ」に傍点]つけられてゐる、私は私を罵つたり憐んだり励ましたりする。
彼――彼は彼女の子であつて私の子ではない――から、うれしくもさみしい返事がきた、子でなくて子である子、父であつて父でない父、あゝ。
俳句といふものは――それがほんとうの俳句であるかぎり――魂の詩だ[#「魂の詩だ」に傍点]、こゝろのあらはれ[#「こゝろのあらはれ」に傍点]を外にして俳句の本質はない、月が照り花が咲く、虫が鳴き水が流れる、そして見るところ花にあらざるはなく、思ふところ月にあらざるはなし、この境涯が俳句の母胎だ。
時代を超越したところに、目的意識を忘却したところに、いひかへれば歴史的過程にあつて、しかも歴史的制約を遊離したところに、芸術(宗教も科学も)の本質的存在がある、これは現在の私の信念だ。
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 さみしい夜のあまいもの食べるなど
・何でこんなにさみしい風ふく
・手折るよりぐつたりしほれる一枝
・とりきれない虱の旅をかさねてゐる
・雨にあけて燕の子もどつてゐる
 縞萱伸びあがり塀のそと
 いちめんの蔦にして墓がそここゝ
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ロマンチツク――レアリスチツク――クラシツク――そして、何か、何か、何か、――そこが彼だ。

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我昔所造諸惑[#「惑」に「マヽ」の注記]業  皆由無始貪瞋痴
従身口意之所生  一切我今皆懺悔
衆生無辺誓願度  煩悩無尽誓願断
法門無量誓願学  仏道無上誓願成
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 七月二日 同前。

雨、いかにも梅雨らしい雨である、私の心にも雨がふる、私の身心は梅雨季の憂欝に悩んでゐる。
入浴、読経、漫読、思索、等、等、等。
発熱頭痛、まだ寝冷がよくならないのである、歯がチクチクいたむ、近々また三本ほろ/\ぬけさうだ。
聞くともなしに隣室の高話し[#「隣室の高話し」に傍点]を聞く、在郷の老人連である、耕作について、今の若い者が無智で不熱心で、理屈ばかりいつて実際を知らないことを話しつゞけてゐる、彼等の話題としてはふさはしい。
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・朝の烏賊のうつくしくならべられ(魚売)
・どうやら晴れさうな青柿しづか
・旅もをはりの、歯がみなうごく
 胡瓜こり/\かみしめてゐる
・松へざくろの咲きのこる曇り
 梅雨寒い蚤は音たてゝ死んだ
・くもり憂欝の髯を剃る
    □
  改作一句
・そゝくさ別れて山の青葉へ橋を渡る
    □
 見なほすやぬけた歯をしみ/″\と
 ほつくりぬけた歯で年とつた
 投げた歯の音もしない木下闇
 これが私の歯であつた一片
    □
・釣られて目玉まで食べられちやつた
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例の歯をいぢくつてゐるうちに、ひよいとぬけてしまつた、何となくがつかりとした気持[#「がつかりとした気持」に傍点]である、さみしいといはうか、おかしいといはうか、何ともいへない感じだ。
△物、心、真実、表現、――芸術、句。
二日かゝつてやつと焼酎一合だつた!
もう二本ぬけさうな歯がある!
夕方、五日ぶりに散歩らしい散歩をした、山の花野の花を手折つて戻つた。
今夜初めて蚊帳を吊つた、青々として悪くない(私は蚊帳の中で寝る事をあまり好かないのだが)、それにしてもかうした青蚊帳を持つてゐるのは彼女の賜物だ。
夜おそく湯へゆく、途上即吟一句、――
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・水音に蚊帳のかげ更けてゐる
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 七月三日

晴、これで霖雨もあがつたらしい、めつきり暑くなつた。
朝は女魚売の競争だ、早くまはつてきた方が勝だから、もう六時頃には一人また一人、『けふはようございますか』『何かいらんかのう』。
農家のおぢいさんが楊桃《ヤマモモ》を売りに来た、A伯父を想ひだした、酒好きで善良で、いつも伯母に叱られてばかりゐた伯父、あゝ(同時に、私たちの少年時代には果実といふものがいかに貧弱であつたかを考へた)。
朝の散歩はよいものである、孤独の散歩者ではあるけれど、さみしいとは思はないほど、心ゆたかである。
振衣千仭岡、濯足万里流――といふ語句を読んでルンペンの自由をふりかへつた。
いつしよに伸べてゐた手をふと見て、自分の手が恥づかしかつた、何と無力な、やはらかな、あはれな手だらう。
私は貧乏を礼讃するものではない、しかし私は私の貧乏に感謝しなければなるまい、私は貧乏のおかげで、食物の好き嫌ひがなくなつた、何でもおいしくいたゞくことができるやうになつた、そして貧乏のおかげで今日まで生き存らへることが出来たのである、若し私が貧乏にならなかつたならば、私は酒を飲みたいだけ飲んで、飲みすぎつゞけて、そのために死んでしまつたであらうから。
隣室の話[#「隣室の話」に傍点]はなか/\興ふかく聞かれる、――農家の爺さん婆さんが大きな声で、ねち/\と話しあつてゐる、――働けるだけ働いて、働いても働いても借金がふえるばかり、息子がいふ事をきかないで(世の中に孫ほど可愛いものはないさうな)目先の流行ばかり追うてゐる、あの家の主人が嫁をまた貰ふさうな、四度目の結婚と三度目の結婚で、子供が男に二人、女に三人、それがいつしよになつたら、さぞや面倒だらう、――といつたやうな話。
今日は日曜日のお天気で浴客が多かつた、大多数は近郷近在のお百姓連中である、夫婦連れ、親子連れ、握飯を持つて来て、魚を食べたり、湯にいつたり、話したり寝たり、そして夕方、うれしげに帰つてゆく、田園風景のほがらかな一面[#「田園風景のほがらかな一面」に傍点]をこゝに見た。
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・いつしよに伸べた手白い手恥づかしい手
    □
・温泉《イデユ》掘る音の蔦の実
 みんな売れた野菜籠ぶら/\戻る
    □
・なぐさまないこゝろを山のみどりへはなつ
・家のまはり身のまはり蛙蛙
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 七月四日

晴、一片の雲もない日本晴。
発熱、頭痛、加之歯痛、怏々として楽しまず、といふのが午前中の私の気分だつた。
裏山から早咲の萩二枝を盗んで来て活ける、水揚げ法がうまくないので、しほれたのは惜しかつた。
萩は好きな花である、日本的だ、ひなびてゐてみやびやかである、さみしいけれどみすぼらしくはない、何となく惹きつける物を持つてゐる。
訪ねてゆくところも訪ねてくる人もない、山を家とし草を友とする外ない私の身の上だ。
身許保證(土地借入、草庵建立について)には悩まされた、独身の風来坊[#「独身の風来坊」に傍点]には誰もが警戒の眼を離さない、死病にかゝつた場合、死亡した後始末の事まで心配してくれるのだ!
当家の老主人がやつてきて、ぼつり/\話しだした、やうやく私といふ人間が解つてきたので保證人にならう、土地借入、草庵建立、すべてを引受けて斡旋するといふのだ、晴、晴、晴れきつた。
豁然として天地玲瓏、――この語句が午後の私の気分をあらはしてゐる。
それにしても、私はこゝで改めて「彼」に感謝しないではゐられない、彼とは誰か、子であつて子でない彼、きつてもきれない血縁のつながりを持つ彼の事だ!
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・山路はや萩を咲かせてゐる
・ゆふべの鶏に餌をまいてやる父子《オヤコ》で
・明日は出かける天の川まうへ
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夜ふけて、知友へ、いよ/\造庵着手の手紙を何通も書きつゞけてゐるうちに、何となく涙ぐましくなつた、ちようど先日、彼からの手紙を読んだ時のやうに、白髪のセンチメンタリストなどゝ冷笑したまふなよ。
とう/\今夜も徹夜してしまつた。

 七月五日

曇、后晴、例の風が吹くので、同時に不眠の疲労があるので、小月行乞を見合せて籠居。
きのふのゆふべの散歩で拾うてきた蔓梅一枝(ねぢうめともいふ)を壺の萩と※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]しかへたが、枝ぶり、葉のすがた、実のかたち、すべてが何ともいへないよさを持つてゐる、此木は冬になつて葉が落ち実がはじけた姿がよいのだが、かうした夏すがたもよかつた。
句集「鉢の子」がやつときた、うれしかつたが、うれしさといつしよに失望を感ぜずにはゐられなかつた、北朗兄にはすまないけれど、期待が大きかつたゞけそれだけ失望も大きかつた、装幀も組方も洗練が足りない、都会染みた田舎者[#「都会染みた田舎者」に傍点]! といつたやうな臭気を発散してゐる(誤植があるのは不快である)、第二句集はあざやかなものにしたい!
払うべきものを払へるだけ払つてしまつたので、また、文なしとなつちやつた、おばさんにたのんでアルコール一罎をマイナスで取り寄せて貰ふ、ぐい/\ひつかけて昼寝した。……
夜は宿の人々といつしよに飲んでしまつた、アルコールのきゝめはてきめん、ぐつすりと朝まで覚えなかつた。

 七月六日

雨、今日も行乞不能、ちよんびり小遣が欲しいな!
終日歯痛、歯がいたいと全身心がいたい、一本の歯が全身全心を支配するのである。
夕方、いたむ歯をいぢつてゐたら、ほろりとぬけた、そしていたみがぴたりととまつた、――光風霽月だ。
これで今年は三本の歯がなくなつた訳である、惜しいとは思はないが、何となくはかない気持だ。
くちなしの花を活ける、花の色も香も好きである、野の貴公子といつた感じがある。
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・ほつくりぬけた歯を投げる夕闇
・何だかなつかしうなるくちなしさいて
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 七月七日

雨、空は暗いが私自身は明るい、其中庵[#「其中庵」に傍点]が建ちつゝあるのだから。――
しかし今日も行乞が出来ないので困る、手も足も出ない、まつたくハガキ一枚もだせない。
時々、どしやぶり、よう降るなあ!
昨日も今日も、そして明日も恐らくは酒なし日。
どこの家庭を見ても、何よりも亭主の暴君ぶりと妻君の無理解とが眼につく、そしてそれよりも、もつと嫌なのは子供のうるさいことである。
歯痛がやんだら手足のところ/″\が痛みだした、一痛去つてまた一痛、それが人生だ!
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・くもりおもたくおのれの体臭
・けさはあめの花いちりん
・畦豆も伸びあがる青田風
・雨の山越え苗もらひに来た
・青田青田へ鯉児を放つ
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 七月八日

雨、少しづゝ晴れてくる。
痔[#「痔」に傍点]がよくなつた、昨春以来の脱肛が今朝入浴中ほつとりとおさまつた、大袈裟にいへば、十五ヶ月間反逆してゐた肉塊が温浴に宥められて、元の古巣に立ち戻つたのである、まだしつくりと落ちつかないので、何だか気持悪いけれど、安心のうれしさはある。
とにかく温泉の効験があつた、休養浴泉の甲斐があつたといふものだ、四十日間まんざら遊んではゐなかつたのだ。
建ちさうで建たないのが其中庵でござる[#「建ちさうで建たないのが其中庵でござる」に傍点]、旅では、金がなくては手も足も出ない。
ゆつくり交渉して、あれやこれやのわずらひに堪へて、待たう待たう、待つより外ない。
臭い臭い、肥臭い、こゝでかしこで肥汲取だ、西洋人が、日本は肥臭くて困るといふさうだが、或る意味で、我々日本人は糞尿の中に生活してる[#「我々日本人は糞尿の中に生活してる」に傍点]!
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・朝の道をよこぎるや蛇
・朝しづくの一しづくである
    □
 田植じまひは子を連れて里へ山越えて
    □
・梅雨あかり、ぱつと花のひらきたる
    □
・鯉の児放つや青田風
・曇の日、釣りあげたはいも
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