笑へない喜劇、泣けない悲劇、それが私の生活ではないか。
寺領借入の交渉が頓挫した、時々一切を投げだしたいやうな気分になる、こんなにまでして庵居しなければならないのか。……
子供はほんたうに騷々しい、耳をふさいでゐた。
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 夫婦で親子で畑の草とる
・握つてくれた手のつめたさで葉ざくら
・ひとりをれば蠅取紙の蠅がなく
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 六月廿三日 同前。

空模様のやうに私の心も暗い、降つたり照つたり私の心も。……
ふりかへらない私[#「ふりかへらない私」に傍点]であつたが、いつとなくふりかへるやうになつた、私の過去はたゞ過失の堆積、随つて、悔の連続[#「悔の連続」に傍点]だつた、同一の過失、同一の悔をくりかへし、くりかへしたに過ぎないではないか、あゝ。
払ふべきものは払つた、といつてはいひすぎる、払へるだけは払つた[#「払へるだけは払つた」に傍点]。
多少、ほがらかになつたやうである。

 六月廿四日 同前。

やうやく晴となつた。
妹から心づくしの浴衣と汗の結晶とを贈つてくれた、すなほに頂戴する。
血は水よりも濃いといふ、まつたくだ、同時に血は水よりもきたない。
小串へ出かけて、予約本二冊を受取る、俳句講座と大蔵経講座、これだけを毎月買ふことは、私には無理でもあり、贅沢でもあらう、しかし、それは読むと同時に貯へるため[#「読むと同時に貯へるため」に傍点]である、此二冊を取り揃へて置いたならば、私がぽつかり死んでも、その代金で、死骸を片づけることが出来よう、血縁のものや地下の人々やに迷惑をかけないで、また、知人をヨリ少く煩はして、万事がすむだらう(こんな事を考へて、しかもそれを実行するやうになつたゞけ、私は死に近づいたのだ)。
近来、水――うまい水を飲まない、そのためでもあらうか、何となく身心のぐあいがよろしくない、よい水、うまい水、水はまことに生命の水[#「生命の水」に傍点]である、あゝ水が飲みたい。
蠅取紙のふちをうろ/\してゐる蠅を見てると、蠅の運命[#「蠅の運命」に傍点]、生きもののいのち、といつたやうなものを考へずにはゐられない。
終日終夜、湯を掘つてゐる、その音が不眠の枕にひゞいて、頭がいたんできた。
今日は書きたくない手紙[#「書きたくない手紙」に傍点]を三通書いた、書いたといふよりも書かされたといふべきだらう、寺領借入のために、いひかへれば、保證人に対して私の身柄について懸念ないことを理解せしめるために、――妹に、彼に、彼女に、――私の死病と死体との処理について。――
欝々として泥沼にもぐつたやうな気分だ、何をしても心が慰まない、むろん、かういふ場合にはアルコールだつて無力だ、殊に近頃は酒の香よりも茶の味はひの方へ私の身心が向ひつゝあることを感じてゐる(それは肉体的な、同時に、精神的なものに因してゐると思ふ)。

 六月廿五日 同前。

晴后曇、梅雨の或る日は、といつたやうな気分。
朝焼はうつくしかつた(それは雨を予告するのだが)、自然のうつくしさが身心にしみいるやうだつた。
朝、青草――壺に投※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]すために――五六本を摘んだ、露も蜘蛛もいつしよに。
燕の子が、いつのまにやら巣立つてゐる、それらしいのがをり/\軒端近く来ては囀づる。
水田もまた、いつのまにやら、いちめんの青田となつてゐる、そして蛙が腹いつぱいの声でうたうてゐる。
生きのよい鯖が一尾八銭だつた、片身は刺身、片身は塩焼にして食べた、おいしかつた、焼酎一合十一銭、水を倍加して飲んだがうまくなかつた。
たしかにアルコールに対する執着がうすらぎつゝある、酒を飲まないのでなくて飲めなくなるらしい、うれしくもあり、かなしくもあり、とはこのことだ。
捨てられて仔猫が鳴きつゞけてゐる、汝の運命のつたなきを鳴け、といふ外ない。
新聞配達の爺さんが、明日からは魚も持つてまゐりますから買うて下さいといふ、新聞と生魚!
調和しないやうで調和してゐると思ふ。
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・待つてゐるさくらんぼ熟れてゐる
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 六月廿六日 同前。

曇、近郊散策、気分よろし、御飯がうまい、但し酒はうまくない、これも人生の悲喜劇一齣だらう。
蚤はあたりまへだが、虱のゐたのにはちよいと驚いた、蠅や蚊はもちろん。
今日は日曜日なので一夜泊り、或は一日遊びの浴客がちらほら歩いてゐる、あまりモダンぶりのものは見うけない、こゝにインバイがゐないやうに(カフヱーの女給や芸妓のエロサービスは知らないが)、それはこゝにふさはしいお客さんばかりだ。
妙青禅寺の本堂で、観世流の謡会があつた、日本的でよいと思ふけれど、ほんたうの味は解らない。
青龍園――妙清[#「清」に「マヽ」
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