三月十九日[#「三月十九日」に二重傍線] お彼岸日和、うらゝかなことである、滞在。

今朝は出立するつもりだつたが、遊べる時に遊べる処で遊ぶつもりで、湯に入つたり、酒を飲んだり、歩いたり話したり。
夢を見た、父の夢、弟の夢、そして敗残没落の夢である、寂しいとも悲しいとも何ともいへない夢だ。
終日、主人及老遍路さんと話す、日本一たつしやな爺さんの話、生きた魚をたゝき殺す話などは、人間性の実話的表現として興味が深かつた。
元寛君からの手紙を受取る、ありがたかつた、同時にはづかしかつた。

 三月廿日[#「三月廿日」に二重傍線] 曇、小雪、また滞在してしまつた、それでよか/\。

老遍路さんと別離の酒を酌む、彼も孤独で酒好き、私も御同様だ、下物は嬉野温泉独特の湯豆腐(温泉の湯で煮るのである、汁が牛乳のやうになる、あつさりしてゐてうまい)、これがホントウのユドウフだ!
夜は瑞光寺(臨済宗南禅寺派の巨刹)拝登、彼岸会説教を聴聞する、悔ゐなかつた。――
[#ここから2字下げ]
応無所住而生其心(金剛経)
たゝずむなゆくなもどるなゐずはるな
  ねるなおきるなしるもしらぬも(沢庵)
[#ここで字下げ終わり]
先日来の句を思ひだして書いておかう。――
[#ここから2字下げ]
・湯壺から桜ふくらんだ
 ゆつくり湯に浸り沈丁花
    □
 寒い夜の御灯またゝく
[#ここで字下げ終わり]

[#ここから1字下げ、折り返して7字下げ]
三月廿一日[#「三月廿一日」に二重傍線] 晴、彼岸の中日、即ち春季皇霊祭、晴れて風が吹いて、この孤独の旅人をさびしがらせた、行程八里、早岐の太田屋といふ木賃宿へ泊る(三〇・中)
[#ここで字下げ終わり]

少しばかり行乞したが、どうしても行乞気分になれなかつた、嬉野温泉で休みすぎたゝめか、俊和尚、元寛君の厚意が懐中にあるためか、いや/\風が吹いたゝめだ。
夕方、一文なしのルンペンが来て酒を飲みかけて追つぱらはれた、人事ぢやない、いろ/\考へさせられた、彼は横着だから憎むべく憐れむべしである、私はつゝましくしてはゐるけれど、友情にあまり恵まれてゐる、友人の厚意に甘えすぎてゐる。
[#ここから2字下げ]
・ふるさとは遠くして木の芽
[#ここで字下げ終わり]

 三月廿二日[#「三月廿二日」に二重傍線] 曇、暖か、早岐町行乞、佐世保市、末広屋(三五・中)

たしかに春だ、花曇だと感じた。
行乞相がよくない、よくない筈だ、身心がよくないのだ。
佐世保はさすがに軍港街だ、なか/\賑やかだ、殊に艦隊が凱旋して来たので、街は水兵さんでいつぱい、水兵さん大持てである。
留置郵便落手、緑平老、俊和尚、苦味生君、いつもあたゝかい人々である。
夕食後、市街を観て歩く、食べもの店の多いのと、その安いのに驚く、軍港街の色と音とがそこにもあつた。
一杯ひつかけて寝る、新酒一合六銭、ぬた一皿二銭!

 三月廿三日[#「三月廿三日」に二重傍線] 雨后晴、休養、漫歩、宿は同前。

小降りになつたので、頭に利久[#「久」に「マヽ」の注記]帽、足に地下足袋、尻端折懐手の珍妙な粉[#「粉」に「マヽ」の注記]装で、市内見物に出かける、どこも水兵さんの姿でいつぱいだ、港の風景はおもしろい。
プロレタリヤ・ホールと大書した食堂もあれば、簡易ホテルの看板を出した木賃宿もある、一杯五銭の濁酒があるから、チヨンの間五十銭の人肉もあるだらう!
安煙草はいつも売切れだ、口付は朝日かみのり[#「みのり」に傍点]、刻はさつき[#「さつき」に傍点]以上、バツトは無論ない、チヱリーかホープだ。
[#ここから3字下げ]
骨《コツ》となつてかへつたかサクラさく(佐世保駅凱旋日)
[#ここで字下げ終わり]
塩湯へいつた、よかつた、四銭は安い、昨日の普通湯四銭は高いと思つたが。
佐世保の道路は悪い、どろ/\してゐる(雨後は)、まるで泥海だ、これも港町の一要素かも知れない。
同宿は佐商入学試験を受ける青年二人、タケ(尺八吹)、そして競馬屋さん、この競馬は面白い、玩具の馬を走らせるのである、むろん品物が賭けてある、一銭二銭の馬券で一銭から十銭までの品を渡すのである。

 三月廿四日[#「三月廿四日」に二重傍線] 晴、春風がふく。

九時から三時まで市街行乞、行乞相はわるくなかつたが所得はよくなかつた。
此宿もうるさい、早く平戸から五島へわたらうと思ふ、それにしても旅はさみしいな、行乞もつらいね。
塩湯にゆつくり浸つてから二三杯かたむける、ありがたい。
[#ここから2字下げ]
・水が濁つて旅人をさびしうする
[#ここで字下げ終わり]
近来、気が滅入つてしようがないので、夜はレヴユーを観た。
花はうつくしい、踊り子はうつくしい、あゝいふものを観てゐると煩悩即菩提を感じ[#「感じ」に白三角傍点]る。
[#ここから3字下げ]
をとことをんなとその影も踊る
サクラがさいてサクラがちつて踊子踊る
[#ここで字下げ終わり]
蛙の踊、鷲の舞、さくら踊などが印象として残つた。

 三月廿五日[#「三月廿五日」に二重傍線] 晴、夜来の雨はどこへやら、いや道路のぬかるみへ!

今日も行乞しなければならない、食べなければならないから、飲まなければならないから、死なないから。……
同宿の活辯の失業人と話しこんでゐるうちにもう十一時近くなつてしまつた、急いで支度をして出かける、行乞相はよかつた、所得もよかつた、三時過ぎ戻つた。
例の塩風呂に浸つてから例の酒店で一杯やる、この店は安い、一合でも二合でも喜んで燗をしてくれる、下物は刺身五銭、天ぷらもも[#「も」に「マヽ」の注記]五銭、ぬた弐銭、湯豆腐弐銭、私のやうなノンベイでも三グワン握つて行くと、即身[#「身」に白三角傍点]成仏が出来る、ギヤアテイ、ギヤアテイ、ボーヂ、ソワカ、などゝ親しい友に書いてやつた。
九州西国第二十七番清岩寺へ拝登した、なか/\よいところである、堂宇をもつと荘厳し[#「厳し」に「マヽ」の注記]たらよからうと口惜しかつた。
夜は万歳大会を観た、どうも此頃どうかしたのかも知れない、見物気分がいやに濃厚になつてゐる、が、とにかく愉快だつた、人間は何も考へないで馬鹿笑ひする必要がある、時々はね。
[#ここから2字下げ]
・ヒヨコ孵るより売られてしまつた
[#ここで字下げ終わり]

 三月廿六日[#「三月廿六日」に二重傍線] 晴、いよ/\正真正銘の春だ、宿は同前。

いや/\ながら午前中行乞(そのくせ行乞相はよろしいのだが)、そして留置郵便をうけとる、緑平老からのたよりはしんじつ春のおとづれだつた、うれしくてかなしうなつた。
一風呂浴びて、一杯ひつかけて、そして一服やるのは何ともいへない、まさに現世極楽だ、極楽は東西南北、湯坪にあり、酒樽にあり、煙管にありだ!
空に飛行機、海に船、街は旗と人とでいつぱいだ。
午後は風が出てまた孤独の旅人をさびしがらせた。
季節は歩くによろしく乞ふにものうい頃となつた。
行乞流転に始終なく前後なし、ちゞめれば一歩となり、のばせば八万四千歩となる、万里一条鉄。
方々へハガキをとばせる、とんでゆけ、そしてとんでこい、そのカヘシが、なつかしい友の言葉が、温情かよ。
駅の待合室で偶然、九日を読むことが出来た、此新聞へは私は好感を持つてゐないけれど、それが熊本といふ観念を喚び起してなつかしかつた。
同宿は売卜師、日本を股にかけて歩きまはつてゐるだけに、また口で食つてるだけに、話題も豊富だし話方も上手だつた、八卦見! 何とクラシツクでそしてポピユラアだらう。
彼の話では、深切な巡査、情死娘と役所の小使爺、などが忘れられない。
彼もなまけもの[#「なまけもの」に傍点]だつた。
世間師は、あればあるやうに、なければないやうに、やつてゆくだけの技術を備へてゐる。
何といつても世の中で、高いのは酒、安いのは米。
今日は微苦笑寸劇にぶつかつた、――或る下駄店の前を戻るとき、安いのでぢつと見てゐると、店にゐた若いおかみさんが、さつそく御免とおつしやつた、違ひますよ、下駄を買はうかと思つてるんです、ずゐぶん気が早いですなといつてやつたら、赤い顔をして泣笑ひをした、――罪はないが快い出来事ぢやない。
夕食後、佐世保会館を訊ねて行く、若い店員に訊ねたら、頭の悪い男で、いふことがちつとも要領を得ない、そのために、だいぶ歩き損つた(気の毒だが、あの青年は落伍者にしかなりえまい)、会館は堂々たる建物だつた、ホールも気持がよかつた、支那事変傷痍軍人後援会主催、全国同盟新聞社、森永製菓株式会社後援、映画と講演の夕といふのである、ざつくばらんにいへば、後援と商売とを一挙両得しようといふ愛国運動である、I大佐の講演では少しばかり教へられた、軍事映画では大に考へさせられた、『日本人が一番日本人を知らない』といふ言葉は穿つてゐると思つた。 

 三月廿七日[#「三月廿七日」に二重傍線] 曇、終日臥床。

とう/\寝ついてしまつたのだ、実は一昨夜つい飲んだ焼酎が悪かつたらしい、そして昨日食べた豆腐があたつたらしい、夜中腹痛で苦しみつゞけた、今日は断食で水ばかり飲んで寝た、夕方から少しづゝよくなつてきた。
あまり健康だつたから、健康といふことを忘れてしまつてゐた、疾病は反省と精進とを齎らす。
旅で一人で病むのは罰と思ふ外ない。
[#ここから2字下げ]
・よろこびの旗をふる背なの児もふる(旗行列)
[#ここで字下げ終わり]
病めば必ず死を考へる、かういふ風にしてかういふ所で死んでは困ると思ふ、自他共に迷惑するばかりだから。
死! 冷たいものがスーツと身体を貫いた、寂しいやうな、恐ろしいやうな、何ともいへない冷たいものだ。
今日はさすがの私も飲まなかつた(飲んだのはアルコールでなくて水ばかりだつた)、飲みたくもなく、また飲めもしなかつた。
早く嬉野温泉に落ちつきたい、そして最少限度の要求に於て、最少範囲の情実に於て余生を送りたい。

 三月廿八日[#「三月廿八日」に二重傍線] 曇后晴、病痾やゝ怠る、宿は同前、滞在。

午近くまで寝てゐたが、行乞坊主が行乞しないのは一種の堕落だと考へて、三時間ばかり市街行乞、今日一日の生存費だけ頂戴した、勿躰ないことである、壮健な男一匹が朝から晩まで働らき通して八十銭位しか与へられないではないか(日傭人足)、私は仏陀の慈蔭、衆生の恩恵に感謝せずにはゐられないのである(これを具体的にいへば袈裟のおかげである)。
今日は少しばかり飲んだ、昨日一日だけ飲まなかつたのが、一ヶ年間禁酒してゐたやうに感じた(いつぞや三日ばかり禁酒してゐた時はそんなに感じなかつたのに)、ほんたうに、酒好きの酒飲みは助からない、救はれない。
今日、行乞中、いたゞかなければならない一銭をいたゞかなかつた、そしていたゞいてはならない五十銭をいたゞかなかつた――行乞相はよかつたのである、与へられるだけ、与へられるまゝに受けるべき行乞でなければならない、行乞はほんたうにむづかしいと思ふ。
こゝには滞在しすぎた、シケたゝめでもある、病んだゝめでもある、しかしだらしなかつたゝめでもある、明朝は是非出立しよう。
夜に入つてからまた雨となつた、風さへ加はつた、雨は悪くないけれど、風には困る、雨は身心を内に籠らせる、風は身心を外へ向はしめる、風は法衣を吹きまくるやうに、私自身をも吹きまくる、旅人に風はあまりに淋しい。
今夜の同宿者はタケの三人連れ(タケとは尺八の事、随つて虚無僧の事)、何の彼のと喧嘩ばかりしてゐる、他の男は家出した息子を探してゐるといふ、こゝにも性の問題、血縁の問題がある、私は気の毒に思ふと同時にあさましく感じる。
独り住むほど寂しきはなくまた安らけきはない、そして私に於てはその安らかさが寂しさを償うて余りあり。……

[#ここから1字下げ、折り返して7字下げ]
三月廿九日[#「三月廿九日」に二重傍線] からりと晴れてゐる、まだ腹工合はよくないが、いよいよ出立した、停滞する勿れ、行程三里、相ノ浦、川添屋(三〇・中)

[#ここから3字下げ]
物乞ふとシクラメンのう
前へ 次へ
全15ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
種田 山頭火 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング