湯があふれる
・鐘が鳴る温泉橋を渡る
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余寒のきびしいのには閉口した、湯に入つては床に潜りこんで暮らした。
雪が降つた、忘れ雪[#「忘れ雪」に傍点]といふのださうな。
お彼岸が来た、何となく誰もがのんびりしてきた。
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 ざれうた
うれしのうれしやあつい湯のなかで
  またの逢瀬をまつわいな
わたしやうれしの湯の町そだち
  あついなさけぢやまけはせぬ
たぎる湯の中わたしの胸で
  主も菜ツ葉もとけてゆく
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もつとも温泉は満喫したが、嬉野ガールはまだ鑑賞しない!
方々からのたより――留置郵便――を受取つてうれしくもありはづかしくもあつた、昧々、雅資、元寛、寥平、緑平、俊の諸兄から。
緑平老の手紙はありがたすぎ、俊和尚のそれはさびしすぎる、どれもあたゝかいだけそれだけ一しほさう感じる。
こゝに落ちつくつもりで、緑、俊、元の三君へ手紙をだす、緑平老の返事は私を失望せしめたが、快くその意見に従ふ、俊和尚の返事は私を満足せしめて、そして反省と精進とを投げつけてくれた。

とにもかくにも歩かう、歩かなければならない。
こゝですつかり洗濯した、法衣も身体も、或は心までも。
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春が来た旅の法衣を洗ふ
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小入無間、大絶方所、自由自在なところが雲水の徳だ。
今日は一室一人で一燈を独占して読書した(一鉢までは与へられないけれど)。
先日来同宿の坊主二人、一は常識々々と口癖のやうにいふ非常識な男、他は文盲の好々爺。
こゝの主人公は苦労人といふよりも磨かれた人間だ、角力取、遊人、世話役、親方、等々の境地をくゞつてきて本来の自己を造りあげた人だ、強くて親切だ、大胆であつて、しかも細心を失はない、木賃宿は妻君の内職で、彼は興行に関係してゐる、話す事も行ふ事も平々凡々の要領を得てゐる。
彼からいろ/\の事を聞いた、相撲協会内部の事、茶の事、女の事。……
嬉野茶の声価は日本的(宇治に次ぐ)、玉露は百年以上の茶園からでないと出来ないさうである、茶は水による、水は小川の流れがよいとか、茶の甘味は茶そのものから出るのでなくて、茶の樹を蔽ふ藁のしづくがしみこんでゐるからだといふ、上等の茶は、ぱつと開いた葉、それも上から二番目位のがよいさうである。
マヲトコツクル(勇作)の情話も愉快だつた。

 三月十九日[#「三月十九日」に二重傍線] お彼岸日和、うらゝかなことである、滞在。

今朝は出立するつもりだつたが、遊べる時に遊べる処で遊ぶつもりで、湯に入つたり、酒を飲んだり、歩いたり話したり。
夢を見た、父の夢、弟の夢、そして敗残没落の夢である、寂しいとも悲しいとも何ともいへない夢だ。
終日、主人及老遍路さんと話す、日本一たつしやな爺さんの話、生きた魚をたゝき殺す話などは、人間性の実話的表現として興味が深かつた。
元寛君からの手紙を受取る、ありがたかつた、同時にはづかしかつた。

 三月廿日[#「三月廿日」に二重傍線] 曇、小雪、また滞在してしまつた、それでよか/\。

老遍路さんと別離の酒を酌む、彼も孤独で酒好き、私も御同様だ、下物は嬉野温泉独特の湯豆腐(温泉の湯で煮るのである、汁が牛乳のやうになる、あつさりしてゐてうまい)、これがホントウのユドウフだ!
夜は瑞光寺(臨済宗南禅寺派の巨刹)拝登、彼岸会説教を聴聞する、悔ゐなかつた。――
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応無所住而生其心(金剛経)
たゝずむなゆくなもどるなゐずはるな
  ねるなおきるなしるもしらぬも(沢庵)
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先日来の句を思ひだして書いておかう。――
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・湯壺から桜ふくらんだ
 ゆつくり湯に浸り沈丁花
    □
 寒い夜の御灯またゝく
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三月廿一日[#「三月廿一日」に二重傍線] 晴、彼岸の中日、即ち春季皇霊祭、晴れて風が吹いて、この孤独の旅人をさびしがらせた、行程八里、早岐の太田屋といふ木賃宿へ泊る(三〇・中)
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少しばかり行乞したが、どうしても行乞気分になれなかつた、嬉野温泉で休みすぎたゝめか、俊和尚、元寛君の厚意が懐中にあるためか、いや/\風が吹いたゝめだ。
夕方、一文なしのルンペンが来て酒を飲みかけて追つぱらはれた、人事ぢやない、いろ/\考へさせられた、彼は横着だから憎むべく憐れむべしである、私はつゝましくしてはゐるけれど、友情にあまり恵まれてゐる、友人の厚意に甘えすぎてゐる。
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・ふるさとは遠くして木の芽
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 三月廿二日[#「三月廿二日」に二重傍線] 曇、暖か、早岐町行乞、佐世保市、末広屋(三五・中)


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