いや無一文になつてしまつた、SさんGさんに約束した肌身の金もちびりちびり出してゐたら、いつのまにやら空つぽになつてしまつてゐる、これでよい、これでよいのだ、明日からは本気で行乞しよう、まだ/\袈裟を質入しても二三日は食べてゐられるが。
酒飲みは悪い酒を飲み、茶好きはよい茶を好む、前者では量、後者では質が第一の関心事らしい。
かう腹工合が悪くては困つたものだ、これでは行乞相まで悪くなる、姿勢がくづれる、声が出なくなる、眼が光りだす、腹が立ちやすくなる。……
今夜も寝つかれなくて、下らない事ばかり考へてゐた、数回目の厠に立つた時はもう五時に近かつた(昨夜は二時)。

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四月七日[#「四月七日」に二重傍線] 曇、憂欝、倦怠、それでも途中行乞しつゝ歩いた、三里あまり来たら、案外早く降りだした、大降りである、痔もいたむので、見つかつた此宿へ飛び込む、楠久、天草屋(二五・中)
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ずゐぶんうるさい宿だ、子供が多くて貧乏らしい、客間は二階だが、天井もなければ障子もない、せんべいふとんが二三枚あるだけだ(畳だけは畳らしい)、屋根裏のがらんどうにぼつねんとしてゐると、旅愁といふよりも人生の悲哀に近いものを感じる、私はかういふ旅に慣れてゐるから、かういふ宿にかへつて気安さを感じるが(そこをねらつてわざと泊つたのでもあるが)普通の人々――我々の仲間はとても一夜どころか一時間の辛抱も出来まい。
今日は県界を越えた、長崎から佐賀へ。
どこも花ざかりである、杏、梨、桜もちらほら咲いてゐる、草花は道べりに咲きつゞいてゐる。
食べるだけの米と泊るだけの銭しかない、酒も飲めない、ハガキも買へない、雨の音を聴いてゐる外ない。
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 お地蔵さんもあたたかい涎かけ
 汽車が通れば蓬つむ手をいつせいにあげ
・何やら咲いてゐる春のかたすみに
・明日の米はない夜《ヨル》の子を叱つてゐる(ボクチン風景)
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此宿はほんたうにわびしい、家も夜具も食物も、何もかも、――しかしそれがために私はしづかなおちついた一日一夜を送ることが出来た、相客はなし(そして電燈だけは明るい)家の人に遠慮はなし、二階一室を独占して、寝ても起きても自由だつた、かういふ宿にはめつたに泊れるものでない(よい意味に於てもわるい意味に於ても)
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