つくしいこと
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恋塚といふ姓、夫婦株式会社といふ看板、町内規約に依り押売・物貰・寄附一切御断りといふ赤札。
今晩は飲みすぎた、地球が急速度で回転した、私自身も急速度で回転した、一切が笑つた、踊つた、歌つた、そして消滅してしまつた!(此貨幣換算価値五十五銭)
酔ひざめの夢を見た、息づまるほど悲しい夢だつた、あゝ生れたものは死ぬる、形あるものはくづれる、逢へば別れなれけばならない、――しかし、あゝ、しかしそれは悲しいことである。

 三月三十日[#「三月三十日」に二重傍線] 晴、宿酔気味で滞在休養。

旅なればこそ、独身なればこそである、ありがたくもあり、ありがたくもない。
此宿には子供が多い、朝から喧嘩で、泣いたり喚いたり、いやはやうるさいことである、母親は子供をどなるために生存してゐるやうだ。
昨夜は酔うたけれど脱線しなかつた、脱線料がないからでもあつたらうが、多少心得がよくなつたからでもあらう(脱線してはならないのを、いひかへれば、脱線することが出来ないのを脱線するのが、脱線の脱線たるところだから)。
行乞雑感の一つとして、――腹が立たないことの二種[#「腹が立たないことの二種」に傍点]といふことについて考察した。
悪女の深情といふ語句があるが私には関係ない、私には悪酒の深酔だ。
同宿の老人がいろ/\しんせつに宿の事や道筋の事を教へて下さつた、しつかりした、おちついた品のよい老人だつた、何のバイ(商売)か知らないが、よい人がおちぶれたのだらう。
私はさつぱりと過去から脱却しなければならない、さうするには過去を清算しなければならない、私は否でも応でも自己清算に迫られてゐる。
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・朝の山路で何やら咲いてゐる
・すみれたんぽゝさいてくれた
    □
・さくらが咲いて旅人である
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 三月三十一日[#「三月三十一日」に二重傍線] 晴、行程八里、平戸町、木村屋(三十・中)

早く出発する、歩々好風景だ、山に山、水に水である、短汀曲浦、炭車頻々だ。
江迎を行乞してゐて、ひよつこり双之介さんに再会して夢のやうに感じた、双之介さんはやつぱり不幸な人だつた。
双之介さん、つと立つて何か持つてきた、ウエストミンスターだ、一本いたゞいてブルの煙をくゆらす、乞食坊主と土耳其煙草とは調和しませんね。
日本百景九十九島、
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