きの思出もあるので。
此宿は宿としてはよい方ではないけれど、山家らしくて、しつとりと落ちついてゐられるのが好きである。
今日の道はよかつた、いや、うつくしかつた、げんげ、たんぽゝ、きんぽうげ、赤いの白いの黄ろいの、百花咲きみだれて、花園を逍遙するやうな気分だつた、山もよく水もよかつた、めつたにない好日だつた(それもこれもみんな緑平老のおかげだ)、朝靄がはれてゆくといつしよに歯のいたみもとれてきた。
麦の穂、苗代つくり、藤の花、鮮人の白衣。
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雀よ雀よ御主人のおかへりだ(緑平老に)
香春をまともに別れていそぐ
別れてきた荷物の重いこと
別れてきて橋を渡るのである
靄がふかい別れであつた
ひとりとなつてトンネルをぬける
なつかしい頭が禿げてゐた(緑平老に)
・塵いつぱいの塵をこぼしつゝゆく
石をきざみ草萠ゆる
若葉清水に柄杓そへてある
・住みなれて筧あふれる
・あるけばきんぽうげすわればきんぽうげ
□
・衣がへ、虱もいつしよに捨てる
□
山寺ふけてゆつくり尿する(改作・福泉寺)
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此宿の田舎らしいところはほんたうにうれしかつた、水もうまかつた、山の水としてもうまかつた、何度飲んだか分らない、何杯も何杯も飲んだ、腹いつぱい飲んだ、こんなにうまい水はめつた[#「めつた」に傍点]に飲めない。
同宿二人、一人は研屋さん、腕のある人らしい、よく働いてよく儲けて、そしてよく費ふ――費ひすぎる方らしい、飲まなければ飲まないですむが、飲みだしたら徹底的に飲む、いつかも有金すつかり飲んでしまつて、着てゐる衣服はもとより煙草入まで飲んでしまいましたよ、などゝニコ/\話してくれた、愉快な男たることを失はない、他の一人は蹴込んでマツチを売つてあるく男、かなり世間を渡つてゐるのに本来の善良性を揚棄しえないほど善良な人間であつた。
今夜といふ一夜は幸福だつた、地は呼野、家は城井屋、木賃三十銭、中印をつけて置くが上印に値する、私のやうなものには。
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・ぜんまい ・おばぜり
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五月三日[#「五月三日」に二重傍線] 晴、行程七里、下関市、岩国屋(三〇・中)
よい日だつた、よい道づれもあつた、十一時頃小倉に入つた、招魂祭で人出が多い、とても行乞なんか出来さうになし、また行
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