寂しくもあり嫌でもある、私は思ふ、日本人には入浴ほど安価な享楽はない。
朝夕の涼しさ、そして日中の暑さ。
今日此頃の新漬――菜漬のおいしさはどうだ、ことに昨日のそれはおいしかつた、私が漬物の味を知つたのは四十を過ぎてからである、日本人として漬物と味噌汁と(そして豆腐と)のうまさを味はひえないものは何といふ不幸だらう(さういふ不幸は日本人らしい日本人にはないけれど)。
酒のうまさを知ることは幸福でもあり不幸でもある、いはゞ不幸な幸福であらうか、『不幸にして酒の趣味を解し……』といふやうな文章を読んだことはないか知ら、酒飲みと酒好きとは別物だが、酒好きの多くは酒飲みだ、一合は一合の不幸、一升は一升の不幸、一杯二杯三杯で陶然として自然人生に同化するのが幸福だ(こゝでまた若山牧水、葛西善蔵、そして放哉坊を思ひ出さずにはゐられない、酔うてニコ/\するのが本当だ、酔うて乱れるのは無理な酒を飲むからである)。
今日、歩きつゝつく/″\思つたことである、――汽車があるのに、自動車があるのに、歩くのは、しかも草鞋をはいて歩くのは、何といふ時代おくれの不経済な骨折だらう(事実、今日の道を自動車と自転車とは時々通つたが、歩く人には殆んど逢はなかつた)、然り而して、その馬鹿らしさを敢て行ふところに、悧巧でない私の存在理由があるのだ。
自動車で思ひ出したが、自動車は埃のお接待をしてくれる、摂取不捨、何物でも戴かなければならない私は、法衣に浴せかけられた泥に向つても合掌しなければならないのだらう。
今日の特種としては、見晴らしのいゝ路傍に蹇車を見出した事だつた、破れ着物を張りまはした中から、ぬつと大きな汚ない足が一本出てゐた(その片足は恐らく見るかげもなく頽れてしまつてゐるのだらう)、彼は海と山との間に悠々として太平の夢を楽しんでゐるのだ、『おい同行さん』とその乞食君(私としては呼び捨てには出来ない)に話しかけたかつたが彼の唯一の慰めともいふべき睡眠を妨げることを恐れて、黙つて眺めて通り過ぎたが。
[#ここから2字下げ]
 泊めてくれない村のしぐれを歩く
 こゝろつかれて山が海がうつくしすぎる
 岩のあひだにも畠があつて南瓜咲いてる
・波音の稲がよう熟れてゐる
・蕎麦の花にも少年の日がなつかしい
 労れて足を雨にうたせる
[#ここで字下げ終わり]

 十月二日[#「十月二日」に二重傍線] 雨、午后は晴、鵜戸、浜田屋(三五・中)

ほんたうによう寝られた、夜が明けると眼がさめて、すぐ起きる、細い雨が降つてゐる、けふもまた濡れて歩く外ない、昨日の草鞋を穿いて出かける、途中、宮ノ浦といふ部落を行乞したが、どの家も中流程度で、富が平均してゐるやうであつた、今は養蚕と稲扱との最中であつた、三里半歩いて鵜戸へ着いたのが二時過ぎ、こゝでも二時間あまり行乞、それから鵜戸神宮へ参拝した、小山の石段を登つて下る足は重かつたが、老杉しん/\としてよかつた、たゞ民家が散在してゐるのを惜しんだ、社殿は岩窟内にある、大海の波浪がその岩壁へ押し寄せて砕ける、境地としては申分ない、古代の面影がどことなく漂うてゐるやうに感じる。
今夜はボクチンに泊ることが出来た、殊に客は私一人で二階の六畳一室に寝そべつて、電燈の明るさで、旅のたよりを書くことが出来た、寥平、緑平の二君へ、そして吉田、石次、中山の三氏へ神宮絵葉書を出したのでほつ[#「ほつ」に傍点]とした。
句はだいぶ出来た、旅で出来る句は無理に作つたのでないから、平凡でも、その中に嫌味は少ない。
[#ここから2字下げ]
・お経あげてお米もらうて百舌鳥ないて
 露草が露をふくんでさやけくも
・一りん咲けるは浜なでしこ
・鵜しきりに啼いて何を知らせる
・われとわれに声かけてまた歩き出す
・はてしない海を前にして尿する
・吠えつゝ犬が村はづれまで送つてくれた
 殺した虫をしみ/″\見てゐる
 腰をかける岩も私もしつとり濡れて
・けふも濡れて知らない道を行く
 穴にかくれる蟹のうつくしさよ
・だるい足を撫でては今日をかへりみる
 暗さおしよせる波がしら
 交んだ虫で殺された
 霽れてはつきりつく/\ぼうし
[#ここで字下げ終わり]
此附近の風景は土佐海岸によく似てゐる、たゞ石質が異る、土佐では巨巌が立つたり横は[#「横は」に「マヽ」の注記]つたりしてゐるが、こゝではまるで平石を敷いたやうな岩床である、しかしおしよせ、おしよせて、さつと砕け散る波のとゞろきはどちらも壮快である、絶景であることには誰も異論はなからう。
現在の私には、海の動揺は堪へられないものである、なるたけ早く山路へはいつてゆかう。
私の行乞[#「私の行乞」に傍点]のあさましさを感じた、感ぜざるをえなかつた、それは今日、宮ノ浦で米一升五合あまり金十銭ばかり戴いたので、それだけでもう今日泊つて食べるには十分である、それだのに私はさらに鵜戸を行乞して米と銭を戴いた、それは酒が飲みたいからである、煙草が吸ひたいからである、報謝がそのまゝアルコールとなりニコチンとなることは何とあさましいではないか!
とにもかくにも、どうしても私は此旅で酒を揚棄しなければならない、酒は飲んでも飲まなくてもいゝ境界へまで達しなければならない、飲まずにはゐられない気分が悪いやうに、飲んではならないといふ心持もよくないと思ふ、好きな酒をやめるには及ばない、酒そのものを味ふがよい、陶然として歩を運び悠然として山を観るのである。
岩に波が、波が岩にもつれてゐる、それをぢつと観てゐると、岩と波とが闘つてゐるやうにもあるし、また、戯れてゐるやうにもある、しかしそれは人間がさう観るので、岩は無心、波も無心、非心非仏、即心即仏である。
猫が鳴きよる、子供が呼びかける、犬がぢやれる、虫が飛びつく、草の実がくつつく、――そしてその反対の場合はどうだらう、――犬に吠えられる、子供に悪口雑言される、猫が驚ろいて逃げる、家の人は隠れる、等、等、等。
袈裟の功徳と技巧! 何といふ皮肉な語句だらう、私は恥ぢる、悔ゐる、願はくは、恥のない、悔のない生活に入りたい、行うて悔ゐず、そこに人生の真諦があるのではあるまいか。
同宿の或る老人が話したのだが(実際、彼の作だか何だか解らないけれど)、
[#ここから2字下げ]
一日に鬼と仏に逢ひにけり
仏山にも鬼は住みけり
[#ここで字下げ終わり]
鬼が出るか蛇が出るか、何にも出やしない、何が出たつてかまはない、かの老人の健康を祈る。
鵜戸神宮では自然石の石だゝみのそばに咲いてゐた薊の花がふかい印象を私の心に刻んだ、今頃、薊は咲くものぢやあるまい、その花は薄紅の小さい姿で、いかにも寂しさうだつた、そして石段を登りつくさうとしたところに、名物『お乳飴』を売つてゐる女子供の群のかしましいには驚かされた、まさかお乳飴を売るからでもあるまいが、まるで、乳房をせがむ子供のやうだつた、残念なことにはその一袋を買はなかつたことだ。
宿の後方の横手《ヨコテ》に老松が一本蟠つてゐる、たしかに三百年以上の樹齢だらう、これを見るだけでも木賃料三十五銭の値打はあるかも知れない、いはんや、その下へは太平洋の波がどう/\とおしよせてゐる、その上になほ、お隣のラヂオは、いや蓄音機は青柳をうたつてゐる、青柳といへば、昔、昔、その昔、KさんやSさんといつしよにムチヤクチヤ遊びをやつた時代が恋ひしくなる。
こゝの枕はめづらしくも坊主枕だ、茣蓙枕には閉口する、あの殺風景な、実用一点張の、堅い枕は旅人をして旅のあはれを感ぜしめずにはおかない、坊主枕はやさしくふつくらとして、あたゝかいねむりをめぐんでくれる。
宮崎の人々は不深切といふよりも無愛想らしい、道のりのことをたづねても、教へてくれるといふよりも知らん顔をしてゐる、頭もよくないらしい(宮崎の人々にかぎらず、だいたい田舎者は数理観念に乏しい)、一里と二里とを同一の言葉で現はしてゐる、腹を立てるよりも苦笑すべきだらう。

 十月三日[#「十月三日」に二重傍線] 晴、飫肥町、橋本屋(三五・中)

すこし寝苦しかつた、夜の明けきらないうちに眼がさめて読書する、一室一燈占有のおかげである、八時出立、右に山、左に海、昨日の風景のつゞきを鑑賞しつゝ、そしてところ/″\行乞しつゝ風田といふ里まで、そこから右折して、小さい峠を二つ越してこゝ飫肥の町へついたのは二時だつた、途中道連れになつた同県の同行といつしよに宿をとつた。
此宿の老主人から、米を渡すとき、量りが悪いといふので嫌味をいはれた、さては私もそれほど慾張りになつたのか、反省しなければならない、それにしても宮崎では良すぎるといはれ、こゝではよくないといはれる、世はさま/″\人はそれ/″\であるかな。
今朝、宿が豆腐屋だつたので、一丁いたゞいたが、何とまづい豆腐だつたことか、いかに豆腐好きの私でも、その堅さ、その臭さには、せつかくの食慾をなくされてしまつた。
朝、まだ明けきらない東の空、眺めてゐるうちに、いつとなく明るくなつて、今日のお天道様がらんらんと昇る、それは私には荘厳すぎる光景であるが、めつたに見られない歓喜であつた、私はおのづから合掌低頭した。
今は障子の張替時である、張り替へて真白な障子がうれしいと同様、剥がしてまだ張らない障子はわびしい、さういふ障子をよせかけたまゝの部屋へ通されて、ひとりぽかんとしてゐるのは、ずゐぶんさびしいものである。
 午後は風が出た、顔をあげてゐられないほどの埃だつた、かういふ日には網代笠のありがたさを感じる、雨にも風にも雪にも、また陽にもなくてはならないものである。
[#ここから3字下げ]
休んでゆかう虫のないてゐるこゝで
一椀の茶をのみほして去る
子供ら仲よく遊んでゐる墓の中
大|魚籃《ビク》ひきあげられて秋雨のふる
墓が家がごみ/″\と住んでゐる
すげない女は大きく孕んでゐた
その音は山ひそかなる砂ふりしく
けふのつれは四国の人だつた
暮れの鐘が鳴る足が動かなくなつた
[#ここで字下げ終わり]

 十月四日[#「十月四日」に二重傍線] 曇、飫肥町行乞、宿は同前。

長い一筋街を根気よく歩きつゞけた、かなり労れたので、最後の一軒の飲食店で、刺身一皿、焼酎二杯の自供養をした、これでいよ/\生臭坊主になりきつた。
この地方には草鞋がないので困つた、詮方なしに草履にした、草鞋といふものは無論時代おくれで、地下足袋にすつかり征服されてしまつたけれど、此頃はまた多少復活しつゝある、田舎よりも却つて市街で売つてゐる。
此宿の老爺は偏屈者だけれど、井戸水は素直だ、夜中二度も腹いつぱい飲んだ、蒲団短かく、夜は長く、腹いつぱい水飲んで来て寝ると前に書いたこともあつたが。
昨日から道連れになつて同宿したお遍路さんは面白い人だ、酒が好きで魚が好きで、無論女好きだ、夜流し専門、口先きがうまくて手足がかろい、誰にも好かれる、女には無論好かれる。
夕方になると里心が出て、ひとりで微苦笑する、家庭といふものは――もう止さう。
この宿の老妻君は中気で動けなくなつてゐる、その妻君に老主人がサジでお粥を食べさせてゐる、それはまことにうつくしいシーンであつた。
わづか二里か三里歩いてこんなに労れるとは私も老いたるかなだ、私は今まであまりに手足を虐待してゐなかつたか、手足をいたはれ、口ばかり可愛がるな。
わざ/\お婆さんが後を追うて来て一銭下さつた、床屋で頭を剃る、若い主人は床屋には惜しいほどの人物だつた。
焼酎屋の主人から、焼酎は少し濁つてゐるのが本当だと聞かされた、藷焼酎の臭気はなか/\とれないさうだ、その臭気の多い少いはあるが。
今日は行乞エピソードとして特種が二つあつた、その一つは文字通りに一銭を投げ与へられたことだ、その一銭を投げ与へた彼女は主婦の友の愛読者らしかつた、私は黙つてその一銭を拾つて、そこにゐた主人公に返してあげた、他の一つは或る店で女の声で、出ませんよといはれたことだ、彼女も婦人倶楽部の愛読者だつたらう。
[#ここから2字下げ]
・白髪《シラガ》剃りおとすうちに暮れてしまつた
・こゝに白髪を剃りおとして去る

前へ 次へ
全18ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
種田 山頭火 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング