早く立つつもりだつたけれど、宿の仕度が出来ない、八時すぎてから草鞋を穿く、やつと昨日の朝になつて見つけた草鞋である、まことに尊い草鞋である。
二時で高城、二時間ほど行乞、また二里で有水、もう二里歩むつもりだつたが、何だか腹工合がよくないので、豆腐で一杯ひつかけて山村の閑寂をしんみりヱンヂヨイする。
宿の主人は多少異色がある、子供が十人あつたと話す、話す彼は両足のない躄だ、気の毒なやうな可笑しいやうな、そして呑気な気持で彼をしみ/″\眺めたことだつた。
途上、行乞しつゝ、農村の疲弊を感ぜざるを得なかつた、日本にとつて農村の疲弊ほど恐ろしいものはないと思ふ、豊年で困る、蚕を飼つて損をする――いつたい、そんな事があつていゝものか、あるべきなのか。
今日は強情婆と馬鹿娘とに出くわした、何と強情我慢の婆さんだつたらう、地獄行間違なし、そしてまた、馬鹿娘の馬鹿らしさはどうだ、極楽の入口だつた。
村の運動会(といつても小学校のそれだけれど、村全体が動くのである)は村の年中行事の一つとして、これほど有意義な、そして効果のあるものはなからう。
宿の小娘に下駄を貸してくれといつたら、自分の赤い鼻緒のそれを持つて来た、それを穿いて、私は焼酎飲みに出かけた、何となく寂しかつた。
友のたれかに与へたハガキの中に、――
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やうやく海の威嚇と藷焼酎の誘惑とから逃れて、山の中へ来ることが出来ました、秋は海よりも山に、山よりも林に、いち早く深まりつゝあることを感じます、虫の声もいつとなく細くなつて、あるかなきかの風にも蝶々がたゞようてゐます。……
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物のあはれか、旅のあはれか、人のあはれか、私のあはれか、あはれ、あはれ、あはれというもおろかなりけり。
清酒が飲みたいけれど罎[#「罎」に「マヽ」の注記]詰しかない、此地方では酒といへば焼酎だ、なるほど、焼酎は銭に於ても、また酔ふことに於ても経済だ、同時に何といふうまくないことだらう、焼酎が好きなどゝいふのは――彼がほんたうにさう感じてゐるならば――彼は間違なく変質者だ、私は呼吸せずにしか焼酎は飲めない、清酒は味へるけれど、焼酎は呻る[#「呻る」はママ]外ない(焼酎は無味無臭なのがいゝ、たゞ酔を買ふだけのものだ、藷焼酎でも米焼酎でも、焼酎の臭気なるものを私は好かない)。
相客は一人、何かを行商する老人、無口で無愛想なのが却つてよろしい、彼は彼、私は私で、煩はされることなしに私は私自身のしたい事をしてゐられるから。
湯に入れなかつたのは残念だつた、入浴は、私にとつては趣味である、疲労を医するといふことよりも気分を転換するための手段だ、二銭か三銭かの銭湯に於ける享楽はじつさいありがたいものである。
薩摩日向の家屋は板壁であるのを不思議に思つてゐたが宿の主人の話で、その謎が解けた、旧藩時代、真宗は御法度であるのに、庶民が壁に塗り込んでまで阿弥陀如来を礼拝するので、土壁を禁止したからだと。

 十月十六日[#「十月十六日」に二重傍線] 曇、后晴、行程七里、高岡町、梅屋(六〇・中)

暗いうちに起きる、鶏が飛びだして歩く、子供も這ひだしてわめく、それを煙と無智とが彩るのだから、忙しくて五月蠅いことは疑ない。
今日の道はよかつた、――二里歩くと四家《シカ》、十軒ばかり人家がある、そこから山下まで二里の間は少し上つて少し下る、下つてまた上る、秋草が咲きつゞいて、虫が鳴いて、百舌鳥が啼いて、水が流れたり、木の葉が散つたり、のんびりと辿るにうれしい山路だつた、自動車には一台もあはず、時々自転車が通ふばかり、行人もあまり見うけなかつた、しかし、山下から高岡までの三里は自動車の埃と大淀川水電の工事の響とでうるさかつた、せつかくのんびりとした気持が、どうやらいら/\せずにはゐないやうだつた。
今日はめづらしく辨当行李に御飯をちよんびり入れて来た、それを草原で食べたが、前は山、後も山、上は大空、下は河、蝶々がひらりと飛んで来たり、草が箸を動かす手に触れたりして、おいしく食べた。
この宿は大正十五年の行脚の時、泊つたことがあるが、しづかで、きれいで、おちついて読み書きが出来る、殊に此頃は不景気で行商人が少ないため、今夜は私一人がお客さんだ、一室一燈、さつぱりした夜具の中で、故郷の夢のおだやかな一シーンでも見ませう。
『徒歩禅について』といふやうな小論が書けさうだ、徒歩禅か、徒労禅か、有か無か、是か非か。
今夜は水が飲みたいのに飲みにゆくことが出来ないので、水を飲んだ夢ばかり見た、水を飲めないやうに戸締りをした点に於て、此宿は下の下だ!
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 朝の煙のゆう/\としてまつすぐ
 茶の花はわびしい照り曇り
 傾いた軒端にも雁来紅を植えて
 水音遠くなり近くなつて離れない
・水音といつ
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