美的生活論とニイチエ
登張竹風
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)以為《おもへ》らく
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)幸福[#「幸福」に傍点]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)そも/\
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Ko:nnen〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
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高山君の「美的生活論」を一読せる吾等は、不覚拍案快哉を呼び、心窃かに以為《おもへ》らく。これ実に空谷の跫音也、現代の文士は両手を挙げて之を賛すべしと、然れども事実は此の如くならざりき。これそも/\何の故ぞ。
吾等は吾国批評家の文を読むごとに、その論難の多くは、語の概念の争に止まり、議論の大体に通ずること少なきを歎ぜざる能はず。漫《みだり》に自己の心を以て他人を忖度し揣摩臆測を以て無用の文字を重ね、恰かも群盲の鼎を評するが如き観あるは、実に今の批評家の通弊に非ずや。
吾等の見る所を以てせば、高山君の「美的生活論」は、明かにニイチエ[#「ニイチエ」に傍線]の説にその根拠を有す。さればニイチエ[#「ニイチエ」に傍線]が学説の一斑に通ずるものに非ずんば、到底その本意を解し難し、況んやその妙味をや。
高山君曰く、人生の幸福は本能の満足にあり、本能とは人性本然の要求是也と。
ニイチエ[#「ニイチエ」に傍線]の説く所は少しく之と異なり。彼は幸福[#「幸福」に傍点]といふ文字を用ゐるを好まざりき。然れども彼も亦高山君と同じく、本能を以てその人生観の基礎となせり。然らば則ち本能とは何ぞや、ニイチエ[#「ニイチエ」に傍線]の所謂本能は自由の本能[#「自由の本能」に傍点]なり。(Instinkt der Freiheit)彼が道徳に反抗し、法律を無視し、社会の制度を侮蔑せるは、一に唯かの自由の本能の発達を冀《こひねが》ふが為のみ。
高山君は自由[#「自由」に傍点]の語を放たざりき。然れども、その所謂本能は自由の本能[#「自由の本能」に傍点]なることは、また疑を容るゝを要せざるなり。何が故に善徳を修め智識を研くよりも、一盞の美酒を捧さげて清風江月に対するが、本能の満足に適へるか。後者の前者よりも自由なるがために非ずや。彼には桎梏あり、此にはこれなきがために非ずや。何が故に慈善に狂するよりも、佳人と携へて名手の楽を聴くが、本能の満足に適へりや。彼には束縛あり。此には自由あるがために非ずや。
然らば高山君は何等の根拠に基きて、かゝる自由の本能の満足を以て美的生活[#「美的生活」に傍点]と呼べるか。ニイチエ[#「ニイチエ」に傍線]は以為らく。余に向ては余が美しと思惟し能ふものゝみ美なり。余が官能に媚び余が自我心に服従するものゝみ美なり。世間一般の煩瑣なる芸術の法則の如き、余に於て何かあらむと。
高山君の本能の満足を以て、美的生活[#「美的生活」に白丸傍点]と呼べる所以は、ニイチエ[#「ニイチエ」に傍線]がこの語を知らざるものゝ解すること能はざる所ならむ。
高山君は、何が故に戮力《りくりよく》を要して成れる道徳を以て虚偽なりとなし、悪心あるものとなせるか。ニイチエ[#「ニイチエ」に傍線]の悪心説[#「悪心説」に白丸傍点](das schlechte Gewissen)を知らざるものは、またこの意義を解することを得じ。(拙著ニイチエ[#「ニイチエ」に傍線]と二詩人参照)
高山君は、智識道徳を以て相対的価値あるものとなし、本能を以て絶対的価値を有するものとなせり。ニイチエ[#「ニイチエ」に傍線]の所謂「世に真なるものなし[#「世に真なるものなし」に傍点]、一切のもの凡べて許さる[#「一切のもの凡べて許さる」に傍点]」の警語は、明かに同様の意義を表するものに非ずや。
高山君の論を読むものは、またその論のニイチエ[#「ニイチエ」に傍線]の夫れと同じく、詩人の世を憤る声[#「詩人の世を憤る声」に白丸傍点]なるを忘るべからず。
吾等は「美的生活論」を読みて、徹頭徹尾賛同の意を表するものなり。今日の世は実に科学万能の世なり、智識全権の世なり、倫理教育全盛の時代なり、而して人間固有の本能殊に自由なる本能を蔑視する時代なり。かゝる世に向て「美的生活論」を標榜し、大に人生本能の発達満足を説く。豈に偉ならずや。
読売新聞の長谷川天渓君が、「美的生活論」に対する批評は、要するに高山君のニイチエ[#「ニイチエ」に傍線]の説に私淑する所あるを知らざりしが為に、起れる幾多の誤解あるが如し。その本能の意義を疑へる、智識道徳の相対的価値を難ぜる、一に唯、以上の根拠を知らざりしに基く。
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