一例を挙ぐれば、天渓君問ふて云く、敵を見て逃げ出す人の行為も亦美的生活と呼ぶを得るかと。吾等は以為らく然らずと、何となればかゝる行為は既に人間自由[#「自由」に白丸傍点]の本能にあらざればなり。天渓君また問ふて曰く、色情の奴隷が異性を追い廻すも亦美的生活なるかと。吾等は以為らく然り、そが人間自由の本能を満足せしむるに限り美也と。
高山君の美的生活論を解せむと思はむ者は、またニイチエ[#「ニイチエ」に傍線]の個人主義[#「個人主義」に傍点]を解せざるべからず。ニイチエ[#「ニイチエ」に傍線]の個人主義は、吾等の屡々論ぜる如く、威力の意志の満足にあり。高山君が道徳者その人も、道徳その物に絶対の価値ありと思惟するに至り、学者その人も真理の考察を以て無上の楽しみとなすものあらば、そは已に道徳的若くは智識的生活を超絶して、美的生活の範囲に入れるものなりといへるは、知識その者を以て己れの威力を伸張し[#「知識その者を以て己れの威力を伸張し」に傍点]、道徳その者を以て個人の権能を満足せしむるものと思惟せる人々を指さして言へるものと解するを得べからざるか[#「道徳その者を以て個人の権能を満足せしむるものと思惟せる人々を指さして言へるものと解するを得べからざるか」に傍点]。ニイチエ[#「ニイチエ」に傍線]が智識及道徳を罵れるは、知識道徳その者を憎むに非ずして、知識及道徳が人類本来の自由の本能及威力の意志を圧倒するが為なり。されば学者及道徳家にして、その知識及道徳に絶対的価値を賦与し、自から威武も屈する能はず、富貴も淫する能はざる大勇猛心を有するに至らば、其威力の意志は、芸術家のそれと毫も異なる所なし。之を美的生活といふ、何の妨かあらむ。ニイチエ[#「ニイチエ」に傍線]曰く、芸術(Kunst)は能ふ(〔Ko:nnen〕)の語より出づ、されば芸術家の誇るべきは、自己の技能のいかばかり大なるかを自識する所に存す。その製作品の、自己及他人の為に愉快なるか否やは問ふを要せざる所なりと。道徳家及学者のこれと同様なる信念を有し、同様なる精進をなすに至れば、之を以て美的生活なりといふ可ならんか。高山君の謂ふ所を以て、ニイチエ[#「ニイチエ」に傍線]の説に配すれば、論の趣く所実に此の如くならざるを得ざる也。
新文芸記者は、能力の自覚[#「能力の自覚」に白丸傍点]を以て、美的生活に到達する方便なりとなし、縷々数千言を費やし、例を古今東西に引用し、その論を明かにせり。吾等にして誤るなくんば、記者が能力自覚説は期せずしてニイチエ[#「ニイチエ」に傍線]が威力の意志説と符節を合するが如し。非乎。天渓君の提供せる幾多の質問は、以上の論を以て凡べて解釈せらるべきを信ず。
之を要するに美的生活論は、近来最も痛快なる論文なり。唯本能[#「本能」に傍点]といひ、悪心[#「悪心」に傍点]といひ、美的[#「美的」に傍点]といふが如き用語例の、頗る従来の意義と相異なれるが為に、幾多読者の、その真意を解するに至らず、為めに批評家等の誤解を来たし、彼等をして敵なきに矢を放たしむるに至りたるが如きは、吾等窃かに高山君の為に遺憾とする所なり。
吾等が美的生活論に対する卑見は、実の此の如し。若し不幸にして、高山君の真意は茲にあらずして、他に存することあらば、読者は吾等の卑見を以て、吾等が美的生活論と思惟せむも妨なし。



底本:「近代浪漫派文庫 14 登張竹風 生田長江」新学社
   2006(平成18)年3月12日初版発行
入力:田中敬三
校正:門田裕志
2009年11月13日作成
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