ものかと信じこんでしまつた。あきらめるというほど深入りしていたわけではなかつたし、相手が自分をきらつていると思うと、やがて初世という存在は、佐太郎にとつて何等の重大な意味をもたなくなつた。
翌る年の夏、地元の部隊に入隊してやがて出征するときには、もう初世のことなど佐太郎は思い出してもみなかつた。いや、それは正確ではない。思い出しはしても、自分の将来の運命に何等の関係があるものとしては考えなかつたと、言つた方がいい。それはただ、以前に自分の教え子の一人であつた隣村の赤の他人の娘に過ぎなかつた。
三
黄色い煙がたなびいたように青空いつぱいに若葉をひろげた欅《けやき》の木かげの家は、ヒツソリとして人気がなかつた。
ちようどまもなく田植がはじまるという猫の手も借りたいいそがしいときで、どこの家でも、家族一同田圃に出払つていた。わけても佐太郎の家は、佐太郎の弟妹がみんな小学校に行つているので留守番もないはずだつた。
昨夜雨があつたのか、シツトリと湿つている家の前庭を、三毛猫が音もなく横切つて行つた。
復員兵の多くは佐世保近くの上陸地から自家に電報を打つたが、佐太郎は神経痛で足の不自由な老父をわずらわせる気にならず、何の前触れもしなかつた。だから迎えられないのは当然ではあつたが、しかし途中はいいとして、家に着いても家族の顔がないのには、流石にいい気持ではなかつた。
小学校の同級生である喜一が多分自分より一足先に戦地から帰つているはずの西隣に、佐太郎はズダ袋を背負つたままで行つてみた。だが、そこもまるで人影がなかつた。戸口の土間に入つて行つてみると、暗い厩の閂棒の下から、山羊が一頭、怪訝な顔をのぞかせているだけだつた。
途中はなるべく知つた人の顔を避けるようにして来たのであつたが、こういうことになつてみると、急に誰か家族か身近の者の顔が一刻も早く見たくなつて、佐太郎は家族の者が多分出ているはずの田圃の見える家裏の小高い丘に、駈け上つて行つた。
熊笹を折り敷いて、そこにドツカと腰をおろして、胡桃《くるみ》の枝の間から、下の田圃を眺めやつた。
なるほど、部落の誰彼の姿はそこいらに見えた。が、そこに五、六枚かたまつている佐太郎の家の田圃は、二番掘のまま水もひかない姿でひろがつているだけで、人影は見えなかつた。
と、そのとき、佐太郎は一人の若い女が長
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