い手綱をとつて、馬のあとから作場路をこつちにやつて来るのに気ずいた。馬は間違いなく、佐太郎の家のもう十歳以上になつたはずの前二白の栗毛であつた。馬耕から代掻えと四十日にわたる作業で疲れた馬は、ダラ/\と首を垂れた恰好で、作場路から佐太郎の家の屋敷畑の方に入つて来た。
その栗毛の手綱をとつている若い女の姿を、もう一度たしかめるように見やつた佐太郎は、次の瞬間、
――あツ。
と、声に出さずに叫んでいた。それは初世にちがいなかつたからである。
だが、また直ぐに、佐太郎は自分の眼を疑つた。自分の家とは身でも皮でもない赤の他人の隣村の娘である初世が、自分の家の仕事の手伝いに来るはずがない。と言つて、佐太郎の家よりも大きい百姓である初世の家で、初世を日雇稼ぎに出すはずもない。それが、佐太郎の家の栗毛の馬を曳いて、佐太郎の家の方にやつて来たのである。これはいつたい、どうしたことだろう。
佐太郎は焼きつく眼で見守つた。
初世はもうスツカリ大人びている。菅笠のかげの頬は、烈しい作業のせいで火のように紅く炎《も》えている。その黒くうるんだ眼にも変りがない。ただ、その躰つきだけは見ちがえるようにガツシリとしている。途中の小川で洗つて来たらしい栗毛は、背中や腹はきれいになつているが、胸や尻には、代掻えで跳ね上つた泥が白く乾いている。初世の胸許や前垂も泥でよごれていた。
馬をひいた初世の姿は、やがて佐太郎の家のなかに消えた。ヒツソリとしていた家の厩のあたりから、馬草を刻む音がきこえはじめた。
これはいつたいどうしたことだろう。どうも不思議だつた。恐らく初世は、近所の誰かの家に嫁いで来ているか、または仕事の手伝いに来ているかして、近くの田圃に出ている源治から栗毛をひいて行つてくれるように頼まれたというようなことだろう。そうだ、それにちがいない。馬草をやつて直きに家から出て行くにちがいない。
そう考えて、佐太郎は待つた。
ザツ/\と馬草を切る音は止んだ。それでも女の姿は家から出て来ない。
三分、四分、五分――ついに佐太郎はしびれをきらして、折り敷いた熊笹から腰を上げた。丘を降りた重い軍靴の音が、家の戸口から薄暗い土間に消えて行つた。
源治たちより一足先に田圃から上つて来た初世は、水屋で昼飯の仕度にかかつていたが、折からの重い靴音を聞いて、戸口の方を振り返つた。
と、初世
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