帰来
阿部次郎

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【テキスト中に現れる記号について】

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 千九百二十三年の七月、私は、独逸を出てから、和蘭・白耳義を経て再びパリにはひつた。其処の美術館で、前に見た目ぼしいものを見なほしたり、前に見のこして置いたものを見たりするのが私の主たる目的だつた。その月の二十七日の午後、私はルーヴルの大玄関をはひつて直ちに右に折れ、Galerie Mollien を突当つて同じ名を負ふ階段を二階に上り、左折して仏蘭西初期の画廊に入ると間もなく、又三階に上る階段を踏んで Collection Camondo に到達した。それは千九百十一年に死んだキャモンド伯の蒐集で印象派の絵画を以て有名なものである。さうしてこの蒐集には東洋芸術の遺品も又相応にまじつてゐるのである。
 未だ階段の中途にあつて、私の眼は既に壁にかけた支那画にひきつけられた。階段を上りきつた小さい廊下には大きな座像仏が安置されてゐた。さうして其処から足を最初の室に踏み入れると、吾々の眼は四壁にかけた哥麿や写楽等の浮世絵によつて涼しくされる。客遊既に一年半、故国の趣味と生活とに対する郷愁を胸の奥に持つてゐる私に取つては、その微妙な色彩、その簡素な描線、そのほのかな静かな気分が、殆んど一種の救ひとして働きかけて来た。此処には色と線とに対する無量にデリケートな官能がある。此処には、日常生活の些事の中にも滲透して、戯れながらその味を吸ひ取りその美を掬い上げることの出来る芸術家のこゝろがある。凡そその素質[#「素質」に傍点]のこまやかにその官能[#「官能」に傍点]の豊かな点に於いて、此等の画家は、時代を等しくする欧羅巴の画家の多くに比較しても、決して遜色がないであらう。而も此等の浮世絵が特別の意味で民衆を代表し民衆に支持されてゐた芸術であることを思へば、此等の芸術を産んだ[#「産んだ」に傍点]日本の民族も亦この誇を分つべき充分の資格を持つてゐるのである。一体に私は、故国を離れてから、他との比較によつて益々祖国に対する自信の篤くなることを感じて来た。さうしてこの自信が此処でも亦更に確められ得たことは、私の大なる喜びであつた。
 併しこの喜びは、決して影のない光のみではなかつた。私の誇りは、その反面に羞恥に似た一種の感情に裏打せられることを、如何ともすることが出来なかつた。此等の画家と彼等を生んだ民族とが、優れた素質と豊かな官能とを持つてゐることについては、少くとも私にとつては何の疑ひもない。併し彼等はこの素質と官能とを如何なる自覚[#「自覚」に傍点]と意志[#「意志」に傍点]とを以て率ゐてゐるか。彼等の絵のうちに、志すところの高さと、人生の第一義に参する者の自信とを捜し求めるとき、吾々は其処に何等か積極的に貫いてゐるものを発見することが出来るか。徹底するに先つて横に逸れた、小さい機智と皮肉との遊戯、一面に非難者の声を予想しつゝ、而もこれに耽溺することを禁じ得ぬ、意識的な反抗的な好色――かういふものがその素質と官能との純真を累ひして、芸術の本流との疎隔を余儀なくしてゐるやうなことはないか。特に最も悲むべきは、彼等がその画技の意義と尊厳とについて充分の自信を持ち得なかつたところにある。彼等が自ら自己の事業を卑下し、自分の仕事に就いて暗黙の間に一種の「良心の不安」を持つてゐたところにある。吾々は彼等から、「構ふものか」、「この道楽がやめられようか」といふやうな主張を聴くことは出来るであらう。道学も説教もこれを説破するを得ぬ「ぬきさしならず身に沁みる面白さ」の力を、彼等の芸術中に看取することは出来るであらう。併し小さい反抗と弁疏とを離れた腹の底からの自信、道学的の意味を超脱した大なる「正しさ」の自覚――此等のものが彼等の芸術の根柢にあつたかどうかは極めて疑問である。自分の仕事に対する動きなき自信の欠乏は彼等の芸術を小さくし、彼等の芸術から根本的の落付きを奪つてゐると云はれても、吾々はこれに抗弁する所以を知らないであらう。
 この印象は、閾を越えて仏蘭西印象派の室に踏み入るに従つて更に確められる。其処には私の平生敬愛するセザンヌやゴーホのもの二三の外に、私が外遊後実物を見ることによつて始めてその真価値を知つたとも云ふべきコロー(特にその人物)マネー等の
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