作品も相応にあるが、この場合特に比較に持ち来されるものはドガの諸作である。ドガが日本の浮世画家のやうに微妙な垢ぬけのした感覚(特に色彩感覚)を持つてゐたか、彼の舞妓の絵は浮世絵の遊女や美人のやうに透徹した味を持つてゐるか、此等の点に於いて後者を揚げて前者をその下位に置く者があつても、私はこれを不思議とはしないであらう。併しドガの絵は浮世絵の多くのもののやうな他念が――若くは邪念がない。彼は良心の不安や「士流」の非難に対する反抗なしに、余念なくその対象との「対話」に没頭する。自分の仕事の意義に対する積極的な「自覚」が、彼の絵の中に現されてゐるかどうか、縦令この点については疑問があつても、兎に角彼はその自信を脅す魔を持つてゐない。心を専らにして、欣々としてその仕事を追求してゐる点に於いて、彼の An sich の自信は聊かも紊されるところがないのである。如何に逆説めいて響くにもせよ、浮世絵はドガの舞妓の絵に較べて遥かに傾向的である、換言すれば好色の説教を含んでゐる。更に逆説を推し進めることを許されるならば、傾向的な傾向に於いては浮世絵は――その傾向の内容[#「内容」に傍点]に天地の差異あることは云ふまでもないが――ミレーとの間により多くの親縁を持つとも云ひ得るであらう。而もその説教が、ミレーと異る「良心の不安」を背景とするが故に、如何なる長所を以てするも結局「日蔭の芸術」に近いことを如何ともなし得ないのである。
然らば十八世紀の浮世絵と十九世紀の仏蘭西印象派との間に此の如き相違を持来したものは何であるか――これは徳川時代の芸術を理解せむとする者が、誰でも一度は問はずにゐられぬ問題である。
2
千九百二十二年七月廿八日、ベルリンに著いて間もなくのことである。私は大使館のY君の私宅で端唄の「薄墨」のレコードを聴いた。その夏はベルリンでは寒い雨勝な夏であつた。独逸の困窮と不安とは未だ馴れぬ旅ごゝろを特に寂しく落付かぬものとした。さうしてこの不安ながたがた[#「がたがた」に傍点]した町の中で、故国のしめやかな哀音を耳にするのは、何とも云へぬ心持であつた。この言葉少なな、溢れ出る感情を抑へに抑へた、咽び音のやうに幽かな魂の訴へは、欧羅巴のカフェーと其処でダンスにつれて奏せられる騒々しい音楽に比較して、何といふ深淵によつて隔てられてゐることであらう。此の如き音楽を伴奏とする日本の好色は、ヰッテンベルグ・プラッツの辺で吾々を擁する夜鷹の群と――ブラインドをおろした密室で裸踊りのはてに行はれるといふ現代欧羅巴の好色と――何といふ甚しい懸絶であらう。私は三千里の外にゐて日本流の絃歌に対するあこがれに堪へなかつた。さうして遂に、日本にゐる遊仲間と、彼と共に子供の時分から御座敷で逢ひ馴れてゐる歌妓とに、葉書を書くといふ誘惑に打勝つことが出来なかつた。
3
ミュンヒェンは私の未見の「師」リップスが、その生涯の最後の二十年を送つたなつかしい土地である。彼の遺族を其処にたづねて、彼に対する死後の感謝を致すことは、日本を発つときからの私の念願であつた。千九百二十三年の春、私は遺族の消息をたづねるために、故人の弟子で当時其処の大学の員外教授をしてゐたモーリッツ・ガイガーとの文通を始めた。さうして伊太利から独逸への帰途、六月一日から九日までミュンヒェンに滞在してゐるうち、殆んど毎日この人と逢つてゐた。音楽美学に関する一二の論文を書いた若い美学者フーバーとも其処で面識が出来た。
フーバーは日本の音楽をききたいと云つてゐた。私も亦彼にこれを聴かせてその批評をきいて見たいと思つたが、遂にその機会を得なかつた。ガイガーはアメリカの伯父を訪問したとき、其処で日本の総理大臣T氏の令嬢に日本の音楽をきかせて貰つたと云つてゐた。その時彼の受けた印象はどうであつたか。彼は Kolossal klagend(極めて歎きの深い)といふ要領を得た二語にその印象を要約した。吾々の音楽の溜息と深い歎きとは、教養ある欧羅巴人の魂にも亦直ちに通ずるところがあるのである。
日本の音楽が必ずしも吾々の間にのみ通ずる地方的音楽でないことを発見したのは、私の深い喜びであつた。
4
千九百二十三年九月、東京の大震災の後十日、未だ何の消息もない家族の運命に対する不安を抱きながら、私は加茂丸といふ小さい客船に乗つてマルセーユから帰国の途に就いた。当時日本に対するセンティメンタルな愛が極めて昂進してゐた私も、多くの日本人の顔を見ると一寸不思議を感ずるぐらゐに欧羅巴化してゐた。さればと云つて東洋行の英吉利人の中には、欧羅巴人の顔の美しさを代表するやうな男女がゐるわけもなかつた。同船の英吉利人は、往航の場合と等しく復航にも亦私の心を暗くした。この航海に於いて割合
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