に親しく自分と話をしたのは、一人離れて日本に関する仏蘭西語の本を耽読してゐた一伊太利人――一見すればソ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ェート・ロシアの共産党員らしい顔をしてゐながら、その実ムッソリーニやダンヌンチォの旗下に属してゐる男で、今度横浜で震死した領事の代りに日本に赴任するといふ、ミラノのアカデミアの教授――のみであつた。彼は武骨ではあるが真率であつた。さうして新しく赴任する日本の文化が最も多く彼の心をひいてゐるやうに見えた。彼は日本の音楽を聴きたいと云つた。さうして私は再び日本の音楽に対する外国人の批評を耳にし(若くは眼に見る)機会を得たのである。
 人も知る如く、日本の客船には皆蓄音機を具へてゐる。併しそれは単調にして無趣味な現代欧米式ダンスの地に使はれるのみで、船客の音楽的要求を充すに極めて縁の遠いものであることは云ふまでもないであらう。私はデッキスチュワードに、日本のレコードがないかをたづねた。これに応じて彼が出してくれたものは、もう散々に痛んだ十数枚の俗曲落語の類であつた。私はそのうちから清元の十六夜清心を選んだ。さうして多少の説明を与へたあとで彼にこれをきかせた。
 私はこれをきくときの彼のポーズを今でも忘れることが出来ない。彼は下を向いて膝の上に肱を支へ、拳の上に顔を支へた(たとへばロダンの「考へる人」のやうに、若くはミケランジェロのエレミヤのやうに)。さうしてそれでなくとも陰鬱な顔を一層陰鬱にして最後までじつときいてゐた。曲がをへたときに、彼は搾り出すように 〔Scho:n, sehr scho:n〕 といつた(私は彼と独逸語で話をしてゐたのである)。これが御世辞でないことは、彼が御世辞には最も遠い種類の人間であることを考へれば、直ちに首肯することが出来る。恐らく此処でも亦、この伊太利人は吾々の音楽の「哀愁」に心を掴まれたのである。吾々の音楽は此処でも憂鬱によつて「直ちに人心を指した」のである。私はこの 〔Scho:n, sehr scho:n〕 が kolossal klagend の同義語であることを疑ふことが出来ない。
 欧羅巴にゐて未だ大地震の報に接せずにゐるあひだ、日本に帰つて折しも顔見世の芝居を見、なにがしの邦楽会に行つて久しぶりに三味線の冴えた音をきくことは、郷愁を慰めるための私の白日の夢であつた。併し震災後五十日にして東京に帰つた自分には、固よりこのやうな享楽の機会は絶対に与へらるべくもなかつた。私はせめてもの代償を亦蓄音機に求めた。例へば松尾太夫の吉田屋の如きは私の最も聴かむと欲する音楽であつた。生憎このレコードも亦求めて得られぬ恋に過ぎなかつたが、併し私は端唄や、清元や、新内の「明烏」のやうなものを買ひ求めて、暫くの間これに聴き耽つてゐた。さうして、悲しいかな、私は此処でも亦日本音楽の「限界」に触れることを余儀なくされたのである。
 然らばその限界とは何であるか。それは Fiat lux(光をつくる力)を欠くことである。繰返し繰返しこれ等の音楽をきいてゐるうちに、私の心は陰鬱に、ひたすらに陰鬱になるのみであつた。私の心は底なき穴の中にひきずり込まれて行くことを感じた。さうしてその無底の洞穴を充すものは、はてしなき憂愁の響のみであつた。無限の哀音は東西を絶して薄明の中を流れる。私はこの「絶望」の声の中にゐるに堪へなくなつて、再びべートー※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ンやバッハの音楽に救ひを求めた。
 徳川時代に発達した日本の音楽は――三味線音楽は、何故に此の如き絶望の音楽となつたか。

     5

 私は更に一例を附加する。日本をたつとき、私は土産にするために復刻の哥麿浮世画集を持つて行つた。千九百二十二年の八月、ハイデルベルクの下宿に落付いたとき、私は日本好きの其処の夫人に、この画集中彼女自身の選んだ四五葉を贈つた。さうして自分は鏡台二美人図(上村屋版、橋口五葉氏の説に従へば寛政七年頃の作であるらしい)をかけて置いた。前向きに鏡に向つて、赤い櫛を持つて前髪との境をかきわけようとしてゐる、浅黄の縦横縞の浴衣を着た女は、暫くの間その婉柔な姿勢と顔とを以て私の心を和かにして呉れた。併し時を経るに従つて、そのしどけなくとけかかつた帯下や、赤い蹴出しを洩れる膝などが私の心をかき紊すやうになつて来た。私は五月蠅くなつてそれをとり外してしまつた。さうすると、或日夫人が私の部屋にやつて来て、それに気がついたと見えて、貴方はウタマーロを何処にやつたのですかときいた。私は、それは Erhebend(高める力あるもの)でなくていやになつたから取外してしまつたのです、と答へると、彼女は独逸流の卒直を以て、ではなぜそんなものを私に下すつたのですと反問した。「それは Erhebend ではない
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