時子
田山録弥
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)室《へや》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#始め二重括弧、1−2−54]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いろ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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一
Bはやつとひとりになつた。時計を見ると、もう十時である。ホテルの室《へや》の中には、いろ/\なものが散《ちら》ばつて、かなりに明るい電気が卓《テーブル》の上に、椅子の上に、またその向うにある白いベツトの上に一杯にその光線を漲《みなぎ》らしてゐる。今まで間断《ひつきり》なしに客が出入《ではひり》して、低い声音《せいおん》だの、高い哄笑だの、面白さうな笑声《せうせい》などがその一室に巴渦《ともゑうづ》を巻いてゐたが――疲れ果てたやうな、早くさういふ人達から自由になりたいといふやうな、やゝ蒼白いBの顔がくつきりとその明るい光線の中に浮び出して居たが、本社からつけられた随員であり案内者であるSが、「しかし、もう、お疲れでせう。何しろ、昨夜《ゆふべ》も夜行で碌にお休みにはなれないところに、すぐつゞいてこの客ですから――もうお休みになる方が好いでせう」と言つて、まだ話したさうにしてゐた二三人の客を伴れて起ち上つた時には、Bは始めてほつとした。Bは思はず溜息をついた。
Sは暇《いとま》を告げながら、
「それでは明日《あした》はゆつくり上《あが》つて好いですね? 僕はちよつと私用もありますししますから」
「え、何うぞ――」
「先生も静かにお休みなさい。東京の奥さんの夢でも御覧なさい……」
「難有《ありがた》う……」Bはわざと外国風にSの手を握つて、「それよりも、君の私用も何んな私用だかあやしいもんだね。うまい私用ではないかね?」
「そんなことはありません。いくら僕がハルピンが好きでも、さういふものはありませんよ。矢張、先生と同じですよ。東京の郊外に置いて来た嚊《かゝ》の夢でも見るだけですよ」
「何うだかわからんね? でなくつては、いくら好きでもハルピンに年に三四度もやつて来る筈はないよ」
「まア、その辺のところは先生の想像に任せますよ」Sはもう外に出てゐる二三人の客をあとから急いで追ふやうにして、「ではお休みなさいまし」
「さやうなら――」
扉は外からしめられて、把手《ハンドル》の手のぐるりと廻る気勢《きせい》がしたが、廊下を伝つて階段の方へと下りて行く跫声が暫しの間きこえて、そしてあとはしんとなつた。Bはまた溜息をついた。
かれはあたりを見廻すやうにした。やつとその時が来た! やつとその時がやつて来た! かれはかう心の中に囁いた。体がわく/\した。
「もう、大丈夫だ。誰も来る筈はない――」かう口に出して云つたが、しかもすぐ起ち上らうとはせずに――わく/\する心をぢつと押へるやうに、体を安楽椅子に深く凭《よ》せて、そこにあるロシア煙草を一本取つてマツチを摩《す》つた。煙《けぶり》がすうと立つた。
それにしても、かれは何んなにこの時の来るのを待つたらう。何んなにこの遠い土地に向つて憧憬《あこが》れたらう。此処に来るといふあてがなければ――その遠いハルピンに行けばあの時子《ときこ》に逢へるといふ人知れぬ秘密の希望を持つてゐなければ、Bは決して今度の満韓旅行を承諾しなかつたに相違なかつた。たとへ、何んなに本社で歓迎して呉れると言つても、又理事級の人達のみが貰ふやうな高い旅費を呉れて、大切なお客様として随行員をつけて何処でも自動車で案内させると言つても、かれは決してそれを承諾しなかつたに相違なかつた。実はかれはかの女あるがために――あきも飽かれもせずに別れたかの女がハルピンにあるがためにのみ重い体を起して今度の旅行に上《のぼ》つて来たのであつた。赤ちやけた殺風景な山巒《さんらん》、寒い荒凉とした曠野、汚ない不潔な支那人の生活、不味《まづ》いしつこい支那料理、時には何うしてこんな不愉快な塞外《さいぐわい》の地にやつて来たらうと思ふやうなことも度々《たび/\》あつたが、しかしいつかは一度ハルピンに行つてかの女に逢へるといふことのためにのみ慰められて努力してやつて来たのであつた。Bは満韓の到るところをかの女と一緒に歩いたことを繰返した。何処に行つてもかれの身辺に、心に、かの女がついて廻つて歩いて行つてゐたことを繰返した。あるところでは、かの女に逢ふことのために勧められた美しい女を謝絶したことを繰返した。「先生は存外堅いんですね。僕は先生はさういふ方だとは思はなかつた。もつと解けた、色つぽい方だと思つてゐた。人といふものは見かけによらないものですね」かう言れた時、Bは、「だつて、君、かういふことがあるよ、いかに砕けたものでも、他に本当に恋したものがあれば、その女の心と一緒になつてゐれば、他に手が出したくつたつて出せないぢやないか。いや、僕にさういふ女があるか、何うか、それは此処には言はないけれども、もしさうだつたとすれば、僕が今他の女に手を出さないのも無理はないぢやないか。何しろ、その女が現に僕と一緒にゐるんだもの……。僕と一緒に歩いてゐるんだもの。ホテルに泊つて、ダブルベツトでさびしいだらうなどゝ君達は言ふかも知れないけれども、そこはねえ、君、ちやんと毎夜来て一緒に寝てゐるんだもの……」こんなことを言つて大勢の人達を煙《けむ》に巻いたことを繰返した。
※[#始め二重括弧、1−2−54]しかし、今夜こそは、本当に、かの女が来る。あの飽きも飽かれもせずに別れた時子が来る※[#終わり二重括弧、1−2−55]かう思ふと、Bはもう一刻もぢつとしてはゐられなかつた。かれはそのまま巻煙草を捨てゝ身を起した。
二
かれはしんとした長い廊下を静かに歩いて行つた。胸は一大事にでも臨んだものゝやうにわく/\した。※[#始め二重括弧、1−2−54]うまくゐて呉れゝば好いがな? 此方《こつち》が来るのは知つてゐるのだから、すぐ電話をかける筈になつてゐるのだから、大抵その心構へをして待つてゐるだらうけれども、ゐれば好いがな……。何処かに出てゐはしないかな?※[#終わり二重括弧、1−2−55]かう思ふと、いくらか不安にはなつて来た。しかし、大連あてにかれによこしたかの女の手紙の文句がしつかりとかれの心に絡み着いてゐるので、別にそれほど強く感じもしなかつた。たとひ今はゐなくとも、今夜は逢へるといふ自信がかれの心の底にはつきりと棒のやうに横《よこたは》つてゐた。
廊下のつき当つたところが、ボオイや女中のゐるところになつてゐた。そこに静かに灯《ひ》が漲つてゐるのをBは目にした。しかしハルピンは今頃は客がないと見えて、あたりはひつそりとしてゐた。大きなサボテンや葉蘭の鉢が硝子の中にくつきりと見えてゐた。
さつきの女中がBの跫音をきいて、そこから顔を出した。
「――――?」
「電話は三階にもあるんだらうね?」
Bは落着いた態度で訊いた。
「御座います――――」
「何処だね?」
女中は蒼白い小さな顔をあたりにくつきりと見せながら、「おかけになるんですね?」かう軽く言つて、そしてBをその背後にある電話室の方へと伴れて行つた。
それはBに取つて持つて来いの電話室であつた。そこには二十燭ほどの電気がついてゐて、その戸を排して中に入れば、何んな秘密な話をしようが、外からそれを立聞きされる憂《うれひ》は少しもなかつた。それに、女中にしても、ホテルだけにさつぱりしてゐた。そこを案内するとそのまゝすぐ元の方へと引返して行つた。
電話の番号は、かの女が大連の旅舎あてによこした手紙で、ちやんと知つてゐたけれども、念のため、そこに置いてある電話帳を繰つて、そのゐる家に当てはめてから、Bは躍る心を押へつゝ徐《しづ》かに把手《ハンドル》を廻した。ベルがあたりの静かな空気にけたゝましく響きわたつてきこえた。
「二十三番――」
かう呼出すと、すぐ通じて、向うから女中らしい声がきこえて来た。
「どなたで御座いますか。は、は、さやうで御座います。武蔵野で御座います。時子さんで御座いますか? あなたはどなた? Bさん……? ちよつとお待ち下さいまし」かう言つて引込んで行つたが、つゞいてすぐ女が代つて出て来たらしかつた。
「お! 時子!」
「あなたはBさん、まア――」その電話はかう言つたが、何でも電話のあるところが端近《はしぢか》で、言ひたいことも思ひ切つて言へないといふ風で、暫く絶句してゐたが、いくらか、小声になつて、「待つてゐたんですの。いつおつきになりましたの?」
忘れられないその声がなつかしく体中に染み込んで行くのをBは感じながら、「今日の昼頃ついたんだがね? 今まで客があつて、電話をかけるひまさへなかつたんだよ」
「さうですか。何うしたんだらう? もうゐらつしやりさうなもんだ。此間のお手紙では、是非もうお着きにならなけりやならない。何うかなすつたんぢやないかしら? ハルピンにはお出でにならないやうになつて了つたんぢやないかしらと思つてゐたんですの……。今も思つてゐたところなの、私うれしい……」その声は低く微かに、いかなる音楽もそれほど強く体に心に染みわたるものはないやうにBの耳に伝へられて来た。
しばしは両方で黙つた。しかしこの沈黙は千万言にも尚ほ勝るほどの感動を二人に与へた。二人の間には心と心とがぴたりと合つた。体と体とがぴたりと触れた。その中間に電話の線が横つてゐるなどは思へなかつた。
「……………………」
「…………? それぢや、私、これからすぐ伺ひます。大丈夫ですよ。心配なんかいりませんよ。Hホテルですね。あなたのゐらつしやるところは、此処からすぐなんですの。いくらもないのですの。ホテルの何処? 二階? さう? 三階なの? 三階の右の二番目の室なの? ぢやすぐ行きます……」かう言つて、チリチリンと電話が切れた。かれは暫らくそこに立尽した。不思議な気がした。そこにある電話の口も把手《ハンドル》も、電話帳も、その狭い室にさし込んで来る灯《ひ》の光線も何も彼もすべて喜悦《よろこび》に輝いてゐるやうにかれには思へた。
三
かれはやがて元の室へともどつて来て、暫しは茫然《ぼんやり》として椅子に腰を下してゐたが、まア少し片附けようと思つて起上つて、そこに卓《テーブル》の上に出してある雑誌だの案内書だの報告書だのを鞄の中に入れて、それを向うの方へと持つて行つた。紙屑の散ばつてゐるのは、屑箱の中に入れ、紅茶茶碗のよごれてゐるのは其方の卓《テーブル》の方へと持つて行つて置いた。かれは不思議な気がした。此処で、かういふところでかの女に逢ふといふことは、此方《こちら》に来るまでは想像も出来ないことだつた。否、此方《こちら》に旅して来てからは、長い間かの女に逢ふことを目的にしてゐたにはゐたにしても、それが着々と進捗して、こつそりと誰にも知れずに、二つの心と二つの体がかういふ風に塞外のホテルの一室に相対しようとははつきりとは思つてゐなかつた。Bはまたしても椅子に身を凭《もた》らせて冥想的にならずにはゐられなかつた。
Bとかの女との関係、時子が何うしても此方《こちら》に来なければならなくなつた理由、今でもその世話になつてゐる人から時子が離れることは出来ないらしい物語――それは此処には言ふ必要はなかつたほどそれほどかれ等は相逢ふことを喜ばずにはゐられなかつたのである。その世話になつてゐる人の上から言へば、さうしたことはとても堪へられないことであつたらうけれども、罪であつたらうけれども、しかしかうしたパツシヨネイトな心と心とが相触れるといふことは何うすることも出来なくはないか。咎めたところで咎めきることは出来なくはないか。しかも、それも長い間ではなく、せい/″\四五日――それを通過しさへすれば、あとはいかに逢ひたくとも再び逢ふことが出来な
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