客をあとから急いで追ふやうにして、「ではお休みなさいまし」
「さやうなら――」
扉は外からしめられて、把手《ハンドル》の手のぐるりと廻る気勢《きせい》がしたが、廊下を伝つて階段の方へと下りて行く跫声が暫しの間きこえて、そしてあとはしんとなつた。Bはまた溜息をついた。
かれはあたりを見廻すやうにした。やつとその時が来た! やつとその時がやつて来た! かれはかう心の中に囁いた。体がわく/\した。
「もう、大丈夫だ。誰も来る筈はない――」かう口に出して云つたが、しかもすぐ起ち上らうとはせずに――わく/\する心をぢつと押へるやうに、体を安楽椅子に深く凭《よ》せて、そこにあるロシア煙草を一本取つてマツチを摩《す》つた。煙《けぶり》がすうと立つた。
それにしても、かれは何んなにこの時の来るのを待つたらう。何んなにこの遠い土地に向つて憧憬《あこが》れたらう。此処に来るといふあてがなければ――その遠いハルピンに行けばあの時子《ときこ》に逢へるといふ人知れぬ秘密の希望を持つてゐなければ、Bは決して今度の満韓旅行を承諾しなかつたに相違なかつた。たとへ、何んなに本社で歓迎して呉れると言つても、又理事級
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