その人のためにもさういふことは出来ないよ……」かう言つてすたすた帰つて来たことをBは思ひ起した。あとでは皆なは唖然としてあつけに取られてゐたに相違なかつた。しかしそれは単なる戯談ではなかつたのである。Bはその眉を、その髪を、その額を、その眼を常に到るところに感じた。否、旅に出て日を経るに随つて、一層その面影の濃《こま》やかになつて来ることを感じたのである。Bは夫人の中《うち》にも徳子といふその妓《おんな》の中《うち》にもそれを発見せずにはゐられなかつたのである。
まだ頻りに悲鳴を挙げてゐる犬の声に耳を留めたKは、
「あれは犬ですかね? さつきから鳴いてゐますが――?」
「さうです――さびしがつて鳴いてゐるんです。大きな犬ですよ」
かう言つてBはH夫妻のことをKに話した。Bはさつき食堂で晩餐の卓についた時、すぐその前にH夫妻がゐて、夫人とは言葉を交はさなかつたけれども、H氏とは種々《いろ/\》と話をしたことを思ひ起した。夫人がきまりがわるさうに黙つてフオークを運んでゐたさまを思ひ起した。「あれで、犬といふ奴は中々役に立ちましてな、あゝいふところに参るには、護身のためにも必要で御座います――それに、馴れると可愛いもんでしてな。家内などでも伴れてあるくと、好い護衛になりますのです……。え? 種《たね》ですか? ドイツ種《だね》です」H氏がかう言つたことを思ひ起して、それをそのまゝKに話したりした。波の舷側に当る音がサ、サ、サ、と静かにきこえた。
Bは招かれて船長室に行き、そこで麦酒《ビール》を御馳走になり、いろいろとめづらしい航海の話を聞き、船長と一緒に夜の海と空とを眺め、星座の位置などを指《ゆびさ》し、もとの船室には帰らずに、そのまゝひとりそこに眠つて了つたが、しかもつひにひとりではなしに、かの女が絶えずそこにやつて来てゐるのを感じた。Bは船室の中のH夫妻をすらB達《たち》のものとして感じ、B達のものとして慰め、B達のものとして楽むやうになつた。(あゝいふ人達のやうに自由に旅に出られたら、それこそ何んなに好いだらう? 蒙古の中でも、砂漠の中でも、何でも進んで行くだらう。あらゆるものを捨てゝ捨てゝ行くだらう。さうした時には、かの女の眼はこの身の眼となるだらう。かの女の手は自分の手となるだらう。かの女の心は自分の心となるだらう。……しかし、失望するにはあたらない。い
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